1-11 お葬式
マイクを受け取り、
カラオケには、すぐに飽きてしまった。予想通りだった。自宅でやるカラオケが長く続いた試しはない。
だらだらとゲームをやったり、冷凍室にあったアイスクリームを半分に分け合ったりしているうちに、なし崩し的に彼女がうちに泊まっていくことが決まった。
駅前のコンビニに行って帰ってきた彼女は僕の部屋着を借り、寝支度を整える。ベッドの隣に敷いた来客用の布団に対し「せんべいみたい」と文句を言いながらも中に潜り込んだ。
同性の友達は何回か泊まらせたことがあるが、異性は初めてだった。それから、気になった女の子は今までにも何人かいたけれど、これほどまで距離を詰められた相手も彼女が初めてだ。
電気を消し、彼女の足を踏まないように気を付けながらベッドに戻る。手を伸ばせば届く場所に、好意を寄せる相手が無防備に寝ころんでいる。
カラオケ店を「ベッドの無いラブホテル」と表現するのであれば、ベッドもカラオケも浴室も備えている我が家って、一体何だ。
「気持ちは固まったの?」
暗闇の中、唐突に、囁くように訊かれた。ものが落ちるような音がした。恐らく眼鏡を外して床に置いたのだろう。
「き、気持ちって?」
空気中のどの物質に反応したのかはわからないが、一日中つけっぱなしにしている空気清浄機が突然うなり始めた。部屋の中が妖しい赤に染まる。
「美大を受験するかどうかわからないって前に言ってたでしょ」
「ああ、そういうこと」
空気清浄機を心の中でなだめながら、「実はまだまだ迷ってるんだ」と返す。
「え、まだぁ?」
彼女は怪訝そうに訊き返す。
「まだ、親に相談できていない。別々に暮らしているからなかなか会って話せないし。あと、医者になれって言われて育ってきたから相談しにくい」
「もしかして、親が医者っていうパターン?」
「パターン」という単語の使い方は合っているのだろか。後で辞書を引いてみようと思いながら「そういうパターンだよ」と答える。
僕は赤裸々に、そしてかいつまんで家の事情を説明した。
昔から、母は姉に、父は僕に期待している節があった。やや年の離れた姉も、きっと肌で感じていただろう。
僕が中学生の時、母と姉は家を出て行ってしまった。姉は僕とは素質が違って、母に期待されていた通り医学部に進むことができた。父は僕が姉のように医学部を志し、自分の後を継ぐと信じて疑っていない。
僕は勉強するより絵を描くことのほうが好きだった。父の意向に反し美大に行って絵を描きたいと思うようになった。しかし、父は僕が勉強をサボっているのを見かければ容赦なく体罰を与えるような人だった。美大なんて口にしようものならきっと大騒動が起きてしまう。
要約しようと試みたわりに長くなってしまった僕の話を、彼女は隣で静かに聞いてくれていた。あまりにも静かなので寝ているのだろうかと疑い始めた時、彼女は「気持ち、わかるな」と反応を示した。
「私も、美大に行きたいって親に言えたのは一年前なんだ」
「一年前?」
頭の中で時系列を確認するが、混乱するばかりだった。
「一年より、もっと短いか。九か月か十か月くらい前かな。高校の卒業式の後に菅美に入ったの。基礎も無かったから、毎日死に物狂いで絵を描いたよ」
ベッドから下をのぞくが暗くて顔は見えない。
菅美に入ってから知ったことはたくさんある。やはり変わり者が多いこと。箱椅子に座り続けていると臀部に痣ができること。制作に使う画材の代金は学費に含まれないから、ほぼ全て自腹を切らなければならないということ。
そして、高校生の時から絵の勉強をし、技術があるのにも関わらず、浪人を繰り返す受験生は珍しくないということ。
美術は学科試験のように丸やバツで採点できない。試験会場でやけくそになってサイコロ鉛筆を振ったとしても、答えは導けない。多くの浪人生たちは「藝大」に進学したくて、はっきりとした正解の無い道の上でもがいているのだ。
小池奏もその部類の浪人生なのだと思い込んでいた。
「じゃあ、奏も現役生みたいなものなんだ」
「そうだね。だから、美大の入試は、二月に受ける青美が人生初。私のお母さんは、私を音大に行かせたかったの。ピアニストを目指していたけど挫折して、一人娘にその夢を託したかったのね。……でも、私の素晴らしい演奏は、世間にはまだちょっと早かった。歌を聴いたんだから、何となく想像できるでしょ?」
「大地を揺るがすような素晴らしい声だったよ」
ふふ、と彼女が笑う。
「音大の入試に全滅して、お母さんはやっと諦めてくれた。奨学金を借りて自分で学費を返す、教員免許を取るって条件で美大受験を許してくれたの」
「お父さんはなんて?」
「お父さんはいない」
彼女はすかさず説明した。片親がいないという知り合いは、特段に珍しくない。そう考えた後、自分の両親だって離婚していることを思い出す。
「でも、もっと早く説得しておくべきだったって後悔してるんだ。十代の貴重な時間を無駄にしちゃったんだもん。来年の夏には二十代だよ、私。俊介くんは今のうちにちゃんとお父さんと話し合って時間を有意義に使ってよね」
「話し合いが終わる前に殺されるかも」
「私もスマホ没収されちゃったよ。半日」
「そうじゃなくて、文字通りの意味で……」
「私が隣にいてあげようか? 第三者がそばにいたら、俊介くんのお父さんも冷静に話せるかもよ」
彼女の提案に「なるほど」とは思ったが、すっかり好きになってしまった相手に醜態を晒すわけにはいかない。
「もし僕が殺されたらお葬式に来てよ」
「意味が無いよ、そんなもの。私は行かない」
拗ねたように言って衣擦れの音を鳴らす。暗闇の中で寝返りを打ったようだ。
「うちは貧乏だからご祝儀も出せないし」
「お葬式でご祝儀を出すくらいなら、確かに参列しないほうがいいね」
「俊介くんにはもっと絵を描いてほしいんだ。俊介くんの絵、良かったよ」
「まだデッサンしか描いてないよ」
「油絵もきっと好きになると思う。俊介くんの目は、特別な目なんだから」
話は終わりと言う代わりに、彼女は「おやすみ」と呟いた。
暗闇に慣れてくると、寝室の中は空気清浄機やエアコンのランプの光で満たされていることがよくわかる。人工的でムラの無い単純明快な緑や青は就寝前の目に眩しい。
家電の光が障るから寝付けないと、母はよく怒っていた。でも、この面白味を感じられない色が僕にとってはむしろ有難い。退屈ですぐ眠くなる。
胸が騒ぐ今日のような夜だって、素直に夢の中に潜り込んでいけるのだ。
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