第3章 星の赤ん坊

3-1 久保誠一郎


 僕は、父と一緒に地下鉄に乗っていた。


 本格的に中学受験の勉強を始める前であり、父がジョギングに興味を持ち始めた頃だ。

 まだ実家のマンションに家族四人で仲良く暮らしていたし、セントラルという店は、その存在すら知らなかった。

 事故もまだ起きていない。

 悪夢にうなされず、心と体にも亀裂は無くて、僕は粘土のような一つのかたまりだった。


 小学校の図書室で借りた本で欠伸を隠す。

 前日の夜は珍しく寝付けなかった。父の引率で、これから久保誠一郎の個展に行くことになっていた。


 ギャラリーの最寄り駅で降りて父と歩く。都心ではあるが、一軒家が立ち並ぶ静かな場所だった。


「この辺りは高級住宅街なんだぞ。俺たちが庶民だって思い知らされるようだな」


 率先して歩きながら、父はなぜか嬉しそうに言った。


 地図アプリを頼りに着いた場所は、広い通りに面する小さな雑居ビルだった。二階へと続く狭い階段の前には「久保誠一郎・絵画展」と書かれたスタンド看板が出ている。


 ビルを見上げてがっかりした。個展と聞いて、美術館のような大きな建物でやるのだろうと思い込んでいたからだ。

 憧れの画家はそのような場所がまだ相応しくないらしい。子どもながらに現実の厳しさを肌身に感じる。


「やっと着いた」


 父は急な階段を我が物顔でずかずかと上っていく。

 僕もどきどきしながら後に続いた。思い描いていたような会場ではなかったけれど、実物の絵をじっくりと拝むことができるのだ。


 二階の廊下の奥では、簡単に蹴破れそうな薄いドアが解放されていた。二人で中へ入る。


「こんにちは」


 入り口に背筋をぴんと伸ばした女性が立っていて僕たちに頭を下げた。スタッフであるらしい。彼女以外には誰の姿も無かった。


「誰もいませんね」


 誰もいないことは良いことだと言わんばかりに父がにこにこする。僕は横目で父を睨んだが、女性は品良く微笑んだ。


「開けたばかりですから。今日はお二人が一番乗りです」


 父のような客には慣れているようだ。


 部屋の中は学校の教室くらいの広さだった。壁にずらりと久保誠一郎の絵が飾られている。手に取れるような小さな作品ばかりだ。


 高鳴る胸を押さえながら一つ一つをじっくり眺め、僕は再び気を落とす。

 点描で描かれているのは変わりないのだが、どの絵にも人影が無い。美しい景色の中に建物があるばかりだった。


 会場を一周した父は早くもあきてしまった様子だ。悔しいことに、僕も期待していたほど夢中になれなかった。天使がいないからだ。


 誰かが階段を上ってくる足音が聞こえ、僕と父と女性の三人で示し合わせたように振り返る。


 会場に入って来たのは線の細い、父と同じくらいの年齢の男性だ。僕たちに一斉に注目されて、気まずそうに笑い、帽子を取って軽く会釈した。


 もしかしてと思ったが、女性が彼に「先生、おはようございます」と声をかけたので確信した。

 彼が久保誠一郎だ。


「作者の方ですか」


 父が場違いな声量で訊くと少し顔をこわばらせたが、「ええ、そうです」と蚊の鳴くような声で答え、微笑んでくれた。


「俊介、よかったじゃないか! この子、あなたの大ファンなんですよ」


 背中を叩かれながら僕は赤面したが、同時に父に感謝した。自分から声を掛ける勇気なんてとてもできなかった。


「ファンですか。私にファンがいるなんて」


 久保も謙遜してはにかんだ。父とは対極の人間だという感じがした。


「はじめまして」


 父を出しに使い、僕も話し掛ける。


 まず、久保の絵が載った薄い画集を持っていること、ホームページも欠かさずチェックしていることを打ち明けた。

 にわか仕込みではなく本物のファンであることを十分にアピールしてからやっと本題に入る。

 今回展示されている絵の中には、なぜ天使の姿が無いのかと訊いた。憧れの画家を前にしたことによる興奮と、目当てだった天使がいなかったことに対する落胆を抑えながら。


 久保も女性も目を丸くさせて顔を見合わせた。


「すごい。……見えるなんて」


 しばらく間を置いて女性のほうが呟き、笑いながら自分の腕をさすった。


「やだ、鳥肌が」


 つられたように久保も弱弱しく笑う。

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