2-22 めでたし、めでたし。

「ごめんね。不安にさせたよね。俊介くんが望むなら、五十嵐先生とは本当にもう何も無いって、今から講師室に行って証明するよ」


 捨てられないよう、必死にすり寄るような顔。

 七五三木しめぎさんの前で見せていた顔と同じだ。

 婚約者の浮気相手と一緒に食事をした七五三木さんのふところの深さに、いまさらながら感心する。


 何も言わないでいると、かなではごめんなさいともう一度謝った。


 彼女は誠意を見せてくれた。これで全てなあなあにしてしまって、一件落着にすることだってできたかもしれない。


 あらゆる料理の味付けに対するように、僕が世の中にも鈍感で、間抜けで、真実に気が付けない大馬鹿者であれば。


「僕は奏のことが好きだよ。これからもずっと」


 蝉が鳴いている。

 遠近感を無くすほどの音量だ。

 鳴き声を聞いていると自分がどこにいるのかわからなくなりそうだが、ここは確かに菅美すがびの屋上だ。


 いつか二人で虹色の空を見上げた。

 泣いている僕を、奏が慰めてくれた。

 蝉の声に風鈴の音も混じる。母は風鈴が苦手だった。今思えば、彼女は少し神経質だったのかもしれない。

 僕は母に似ていない。

 風鈴の音も、家電の光も好きだった。


「私も好き」


 奏が僕の頬に手を添え、キスしようとする。

 僕は肩を掴み、拒んだ。


「……別れたい?」


 そう勘違いされても仕方がないような態度だと思った。

 彼女の声がかすれる。泣き出す前の声だ。


「目のことで、嘘をついていたから?」


 もげそうなほど首を横に振った。

 僕が好きになったのは、彼女の目ではない。本当だ。

 「あちら側へ行ってしまった人間を追いかけたら、二度とこちら側には戻ってこられない」。もし神様にそう言われても、僕は構わず彼女の後を追う。


「両親のことは好きだった。でも、お母さんは厳しかった。お父さんは私にあまり関心が無かった。私が、人並にしか色が見えない子どもだったから。お母さんがピアニストになれそうにない娘にがっかりしたように、お父さんもがっかりしているみたいだった。自分のような画家にはなれそうにないって悟ったの。親から期待されていないのってすごく怖い。俊介くんならわかるでしょ? ……つまらない見栄なんか張って、ごめんなさい。俊介くんにまで『出来損ない』って思われるのが嫌だったんだと思う。私は俊介くんの……、好きになった人の気を引きたかったんだと思う」


「お父さんに言われたの? 『奏は出来損ないだ』って」


 僕は遮った。

 なぜ幼稚な嘘をついていたのかと説明する奏を。


「どうして」

「きみのお父さんは、画家の久保誠一郎だよね? きみの部屋にあった白い絵は、お父さんが描いたものだよね?」


 レンズの下の両目が見開かれる。


「……どうして」

「奏に謝りたい」


 彼女はもう一度「どうして」と繰り返した。


 透明な角膜を通して、彼女の網膜に死にそうな僕の顔の像が結ばれているはず。


「久保誠一郎を殺したのは僕だから」


 久保誠一郎はトラックにはねられて死んだ。

 原因を作ったのは僕だった。


 彼女に事故の経緯を説明しながら、また一つ思いつく。サスペンスドラマの、期待外れなオチを。


 刑事は犯人を追い詰めている。無意識のうちに。

 身の回りで重大事件が起きたことにすらまだ気付けていない。

 黙っていればいいのに、犯人は罪悪感に苛まれ全てを自白してしまう。

 犯人は裁きを受ける。

 めでたし、めでたし。


「どうして泣いてるの」


 僕の話を全て聞き終えた彼女が静かに尋ねた。顔からはありとあらゆる表情が消えている。


「泣いている俊介くんを慰めてあげられるほど、私は心が広くないかな」


 返す言葉も無い。

 僕は甘んじて彼女の言葉を受け入れるしかなかった。

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