1-4 期待


「俊介も医学部に行くと言っています! そう言ってくれた時、私は本当に、本当に安心しましたよ! 期待しているのでね、息子には……」


 僕の隣で父が快活に笑う。

 担任は、演技かかったような笑顔を真正面から向けられると、学校机の上の成績表に目を泳がせてしまった。元々こけていた中年男性の頬は、さらに彫りを深くさせたように見える。


「大きなクリニックですから、継ぐのだって相当の覚悟が必要だと思うんです。医療の知識はもちろん経営センスも問われるわけですし。プレッシャーをバネに、頑張ってほしいですよ!」


 雄弁に父は語る。僕と担任が死んだ目をして押し黙っていることに気付く様子は無い。

 俳優の発声練習かと思うほどの声量。毎朝ジョギングをするために焼けた肌。筋肉のついた体にぴったり沿ったスーツや、洗練されたデザインの腕時計。

 それら全てが、隙間風の侵入を許すこの公立高校の教室でひどく浮いていた。

 父は昔から周りに合わせることが不得意だ。しかし本人にはその自覚が無い。元々の性格なのか、もしくは下々の者に合わせなくても許されると思っているのかどうか。注意してくれる人は、父の周りにはいないみたいだ。

 冬だというのに止まらないひたいの汗を拭きながら、僕は自分の成績表を眺める。そこには「5」という輝かしい数字がずらりと並んでいた。


「俊介には期待しているんです。本当に!」


 三者面談は父のひとり舞台と化したまま幕を閉じようとしていた。

 僕は「医学部を目指すつもりは毛頭ありません。全て父の妄想です」とまだ言い出せずにいる。僕が最後に「医者になる」と宣言したのは、確か、九歳の時だ。正月の親戚の集まりで、空気を読んでそう言った。

 目の前にいる担任も「10段階評価の我が校でオール5なんてなかなか取れませんよ」という苦言を最後まで飲み込むつもりでいるらしい。気弱な数学教師には気が重い役目であろうが、職務は全うしてほしい。


「ありがとうございました」


 頭を下げて父と教室を出ると、「あ、そうだ」と担任が僕たちを引きとめた。とうとう「きみのお父さん、ちょっとずれてますよね」と言える人物が現れたのかと期待した。しかし担任は、「高校生の分際で一人暮らしをしている僕のことを心配している」という旨を伝えただけだった。

 



「疲れるんだよなあ。座って話をするだけなのに」

 隣の校舎の音楽室からぼーんと低い音が鳴って体を少し震わす。吹奏楽部の部員たちにも父の声が届いていたのではないだろうか。

 教室を出た父は幾分か覇気を失って自然体を取り戻しているが、半歩後ろをついていく僕の両脇からは汗がなかなか引いてくれない。


「体の調子はどうだ、俊介」


 滑り止めのゴムが剥げた階段を下りながら父は訊く。

 父が本当に心配しているのは体ではなく、体に覆われた心のほうだ。


「予備校にはちゃんと行ってるのか」


 数学や化学を教えてくれるような予備校のことを指している。絵を習う場所のことでは決してない。


 「まあまあだよ」と返事をすると、父はほっとしたように笑う。実家に寄り付かない息子の的を射ない返事にどうして安心できるのか。のりの利いたシャツの襟をつかんで問いただしたくなるが、我慢した。

 僕は広い背中に語り掛ける言葉を整理する。

 


 お父さん、この成績では逆立ちしても医学部は無理だと思うんだ。そもそも僕は医者になんてなりたくないんだ。代わりにというわけではないけれど、絵が好きだから、美大か芸大を目指してみようと思っているよ。お父さんに内緒で美術予備校にも通い始めたんだ!

 


 ……そんなことを言おうものなら、父の息の根は止まってしまうだろう。

 かわいそうだけれど、現実というナイフで一思いに背中を突いて楽にさせてあげた方がいい。そう思う時だってある。しかし、とどめを刺す前に、僕のほうが返り討ちにあうに違いない。


 僕は父が恐ろしかった。

 クリニックを経営する父は昔から多忙だったが、時間の合間を縫って家族との思い出作りに精を出した。夏になると海水浴やキャンプに連れて行ってくれた。冬は雪山でスキーをした後、温泉旅館で過ごすのが恒例だった。母と姉が家を出て行ってからは遠出することも無くなったけれど、絵に描いたような幸せな時間を父はたくさん与えてくれた。

 中学は私立だったけれど、現在在籍しているこの高校も、卒業した小学校も公立だ。学友たちの家庭の経済状況もまちまちと言ったところ。だから僕は、父のしてくれたことが当たり前だとは決して考えていない。それどころか、もっと感謝の意を表明すべきなのだろう。


 それなのに今、父を前にした僕の体は硬直している。

 父がそばにいる時に真っ先に思い出されるのは宝石のような記憶ではなく、殴られた時の恐怖だった。中学受験の本番が近付いているのに伸び悩む息子の成績に苛立ち、殴るようになったのだ。


 しかし、それも昔の話。今日、医学部には到底手の届きそうにない成績表を目の当たりにしても、父は僕に鉄拳をくらわせなかった。

 その理由は月日が父を丸くしたからではなく、僕が過去に一度、心を壊したからだ。

 恐らく、父はもう僕を脅かさない。

 僕が医学部ではなく美大に進学したいと言い出さない限りは――。


「最近はよく眠れてるよ。友達だっているし」


 父にナイフをちらつける代わりに、精神安定剤を処方する。僕は優しいのだ。裏を返せば臆病ともいえる。

 父はゆらりと僕に向き直った。いつか口の中に広がった鉄の味を思い出し、すくみあがる。


 しかし父は、

「おまえには期待してるんだから」

 と呟くだけだった。


 表情は穏やかでどこか情けない。

 こんな顔をした途端、ぱりっとしたスーツが似合わなくなってしまうのだった。


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