1-5 何浪でも


「へえ、医者の子かあ! すっげー」


 冬期講習二日目の終わりに声を上げたのは、菅田すがた美術予備校の講師である五十嵐いがらしという男だった。

 彼は狭い講師室の中で、苦いような甘いような、どっちつかずのにおいを放っている。

 奥にいた事務員が書籍や書類に囲まれながら、「お医者さんの家の子は初めてよねえ!」と呼応した。


 菅美すがびは大手に比べると生徒数の少ないこじんまりした予備校だ。しかし歴史はそこそこ長いらしい。それなのに「お医者さんの家の子は初めて」だなんて有り得るのだろうか。もしかしたら、親の職業を隠している生徒が紛れているのかもしれない。僕も濁すべきだった。かれこれ十七年も医者の子をやっているというのに、「すっげー」と言われた時の上手い返しを未だに習得できていない。


「じゃあ、今日の面談で決まったことを整理しような」


 五十嵐は親指、人差し指、中指の三本立てた。基礎科の講師である彼との面談で決まったことは三つ。

 第一に、春期講習からは油絵のクラスに入ること。

 第二に、近所の私大である「青美あおび」こと「青木葉あおきば美術大学」を本命とすること。

 最後に、「藝大」を記念受験すること。

 ほんの十五分話しただけだったが、高校の三者面談と比べ物にならないほど充実した時間となった。


「ところで、浪人ってさせてもらえそう?」


 机に立て掛けた僕の下手な静物デッサンを眺めながら、彼は髪を手櫛てぐしでまとめている。

 石膏像のような立体的な顔にパーマのかかった髪型がよく似合っていた。服装だって、おしゃれな三十代の見本としてそのままSNSで紹介されそうだ。(三十代の男性がSNSでファッションに関する情報を集めるものなのかどうかは知らないし、そもそも五十嵐が何歳なのかすら把握していない)。


「……まっ、親が医者なら何浪でもできるね!」


 面談はさわやかな笑顔によって締めくくられた。



 講師室を出て、四階にある基礎科のアトリエに戻る。イーゼルの周りに散らかしたままだった道具を雑に片付けながら、僕は激しく後悔していた。どうして小池かなでに聞いておかなかったのだろう。

 講師にばれずに、作品に「ばーか」と書く方法を。


 なにが「何浪でもできるね!」だ、ばーか。

 「美大に行きたい」とさえまだ打ち明けられていないのに。

 ばーか、ばーか。


 ぷりぷりしながら備品のイーゼルを担ぎアトリエを出る。解放廊下のために冬の風が吹きつけ、イーゼルがばたばたとあおられた。

 セントラルの前で小池奏と出会った日を思い出す。あれ以来、彼女とは一度も会えていない。基礎科生と油絵科生ではアトリエの階数も異なり、接点がまるで無かった。


 菅美の隣の駐車場から大声が聞こえてくる。これから始まる夜間の授業の前に休憩をとっている浪人生たちだろう。


「小池サンって、もうコンビニ行っちゃった? 借りてた五百円返そうと思ったんだけど」


 誰かが誰かに質問した。僕は磁石で引き寄せられるように手すりをつかみ、身を乗り出す。

 真下の駐車場をのぞくと、目つきの悪い金髪の浪人生が僕に向かってすっと人差し指を向けた。ぎょっとしたが、彼はぶっきらぼうに「屋上」とだけ言って視線をまた仲間たちに戻す。


「愛を育んでいる」

「じゃあ、邪魔しないほうがいいな」


 仲間たちはけらけらと笑い出かけていく。夕食を調達するため、近所のコンビニへ向かうようだ。

 イーゼルを置き、今いる四階の廊下から続く階段を見やった。ここを上れば建物の最上部に出られる。小池奏が愛を育んでいるという噂が立ったばかりの屋上だ。

 良いリズムの足音が上のほうから聞こえてくる。姿を現したのは五十嵐だった。末端で冷やされた血液が急に体中をまわり、心臓をどくんと鳴らす。


「お疲れー」


 気の抜けた挨拶をし、彼はさらに下りていく。

 愛を一人で育める人間はいない。

 即席のお粗末なポエムを心に書き留めつつ、階段を上る。黒い柵があった。錠を外し屋上へ進む。土だけが詰められた植木鉢が倒れていたので直した。苦いような、甘いようなにおいがしている。こんなにも風が強いのに、煙草の残り香をかすかに感じられるから不思議だ。


 無人の屋上を見渡す。彼女に会えなかったという寂しさと、彼女がここにいなくてよかったという安堵感で、胸の中がきれいに二分割される。

 手すりにもたれ、オレンジやピンクや紺色をにじませた夕焼け空を仰いだ。黄色や緑や紫の箇所もあった。大きな虹の中にいるようで、見上げているとそのままひっくり返りそうになる。

 けれど、この感覚に共感してくれる人はとても少ない。


「パトカーが来るよ」


 屋上の物置の陰から誰かが顔をのぞかせる。

 まさに探し求めていた人物だった。

 彼女に会えた喜びと、彼女がここで五十嵐と会っていたという事実に対する衝撃で、胸中がまた二つに分かれた。

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