1-6 空を青で、葉っぱを緑で、石ころを灰色で

 屋上に潜んでいた小池かなでの表情は物憂いように見える。ついさっきまで愛を育んでいた人間の顔には思えなかった。日が沈んだせいで暗く感じるだけだろうか。


 彼女は黒いを着ていた。予備校生の制服みたいなものだ。いずれは僕も油彩道具と一緒に購入する必要がある。服に付いた油絵の具は、水で落とすことができないからだ。


「デザイン科の先輩がそこで黄昏たそがれてたら、『自殺しようとしてる人がいる』ってご近所さんに通報されちゃったらしいよ」


 忠告を真に受け、手すりを離れる。物置にもたれかかるようにして座っている彼女のかたわらに立った。彼女はここで木枠にカンヴァスを張っていたようだ。トンカチを拾い上げると、慣れた手つきで小さなを打ち込んでいく。すぐ隣に赤い吸殻すいがら入れが設置されていた。


「小池さん、今日は何を書くんですか?」


 何を描くのかではなく、何を書くのか。絵の中に隠す予定のメッセージの内容について尋ねた。

 彼女は手を止め、少し考え込む。


「『ため口でいいよ』って、書いておこうかな。ついでに『奏って呼んで。私も俊介くんって呼ぶね』って」


 質問の意図は正確に伝わったようだった。


「余白が足りるかな」

 彼女は笑ってくれた。

「僕の名前、覚えていてくれたんだ」

「だって、同じ目を持っている人って滅多にいないでしょ?」


――五十嵐いがらし先生も、僕たちと同じ目を持ってるの?


 勇気を奮って尋ねる代わりに、「虹色だね」と空を見上げる。彼女も上を向き、「本当だ」とまばたきした。今さらになって、空の色の変化に気が付いたらしい。


 カンヴァスを張るのに夢中になりすぎていたのか、今はこの場にいない誰かのことを考えていたのかは、僕にはわからない。



 黄色いクレヨンで太陽を描いて注意された経験がある人は珍しくないだろう。だから、それはわざわざ鼻を高くするようなエピソードではない。

 僕はというと、幼少期から空を緑で塗ったり、葉っぱを紫で塗ったり、石ころをピンクで塗ったりしてよく怒られていた。

 ふざけていたわけではない。本当にそういう風に物の色が見えている。どうして他の人は空を青で、葉っぱを緑で、石ころを灰色で塗るのか、いつも不思議だった。

 奇をてらっていると捉える人たちも多く、保育園で一番こわい先生に画用紙を取り上げられ、目の前で破られたこともある。思い返すと胸がぎゅっと縮まる、悲しい記憶の一つだった。


 通販で服を買うのは最悪だ。便利ではあるが、ウェブページの写真と同じ色の商品が来た試しがない。だから、流通が発達したこの時代にも関わらず、僕はわざわざ服屋へ出向く必要がある。

 しかし、実店舗にも落とし穴が待っているのだ。

 とても気に入っていた服があった。「似合っている」と仲間内からも好評だった。僕は同じものがもう一着欲しくなった。購入した店へ再び訪れ、同じ服が売っている棚の前まで店員に案内してもらった。違和感を覚えながら服を手に取った。服の形は全く同じなのに、色が異なっている。

 僕は商品を手にしたまま仰いだ。店はショッピングモールの中にあった。モールの一面はガラス壁になっている。ガラスを通過した日光が、店の出入り口にまでさんさんと降り注いでいた。つまり、紫外線のせいで服の色がせてしまったのだ。購買意欲はすっかり失せて、結局何も買わず店を後にした。


 もちろん、困るようなことばかりではない。特別な色覚を持っていてよかったと思うこともある。

 僕には久保誠一郎くぼせいいちろうというお気に入りの画家がいる。

 彼の絵の特徴は「点描てんびょう」だ。カンヴァスには、油絵の具をつけた筆先で小さな点がいくつも打たれている。近くで見ると点の集まりにしか見えないのだが、遠ざかると風景や建物が描かれていることがわかる。まるで、「グランド・ジャット島の日曜日の午後」を描いた十九世紀の画家、ジョルジュ・スーラの作品のように。


 久保誠一郎はほとんど無名と称してもいいような画家だった。スーラに比べるのもおこがましい。しかし熱心なファンは少なからずいるようで、僕もそのうちの一人だった。

 だいたいの人間は彼の絵を見ても「スーラを真似しただけのただの風景画」だと思ってすぐに飽きてしまう。家族も何がこの絵の魅力なのか全くわかっておらず、有難がって鑑賞する僕のことをいつも不思議そうに眺めていた。


 しかし、僕には見えた。

 点描が作る風景の中に、天使の姿が。

 背中に翼を生やした少女の影が。


 小学四年生の時、都内の小さなギャラリーで久保誠一郎の個展が開かれた。訪れた日にたまたま画家本人が在廊していて、僕は興奮しながら絵の中の天使の話をした。

 すると、作者である彼は目をいて、しばらく押し黙ってしまった。

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