1-3 「白」

「クラクションの音って最悪。……きみ、また菅美すがびに来る?」


 体験授業は今日一日で終わり、菅美では来週から冬期講習が始まる。申し込みも入金も既に済ませている。

 しかし、モチベーションはどん底まで下がり切っていた。本格的なデッサンは今回が初めてだったが、元々絵を描くことは好きだったから何とかなるだろうと考えていた。

 甘かった。

 モチーフは白い石膏像だったのに、出来上がった絵は「火葬の途中で引きずり出された遺体の絵」という具合だったのだ。木炭紙に人型の黒いシミをつけただけ。

 授業の最後、生徒たちの作品を前に並べてそれぞれ講評してもらうのだが、僕の作品に対し、みな失笑を禁じえなかった。


「……冬期講習には一応行くけど、美大受験はしないと思います。自分が下手くそだって、よーく思い知りましたから」


 だから、サンタ帽を頭に載せたムジナにはなれそうにない。


「高一?」


 人差し指を立てて彼女が訊く。


「高二です」


 二学期もそろそろ終わる。あと数か月もすれば三年生だ。


「受験までに間に合わないと思います」


 あと一年で実力を身に着ける自信は無い。そうかと言って、一般の大学に合格できるような学力があるわけでもないのだけれども。


「浪人すれば。私らみたいに」


 彼女は事もなげに言って店の窓ガラスをあごで指す。窓を仰ぐが、サンタ帽の集団はここからは見えなかった。


「最初から上手い人なんていないよ」


 彼女が柔らかく微笑むと、冬から一つ季節が進んだような気がした。


「カナデ!」


 店からもう一人のサンタが出てきた。「カナデ」と呼ばれた眼鏡の女性は風で暴れる自分の作品を引きずり出しながら「絵が倒れそうだった」と説明する。


「だから言ったじゃん。さっむ!」


 サンタは友人と冬の外気にあきれて戻っていく。


「やっぱり、店の中に持っていくことにする。預かってくださいって、よしださんに頼んでみようかな」

「賛成。この人、寒そうですし」


 丸裸の人物を思いやると、彼女はおかしそうに目を細めた。絵なので実際には風邪を引かないだろう。しかしカンヴァスが倒れて他人を怪我させるか、絵を見てわいせつ物だと騒ぎ立てる輩が現れる恐れがある。その前にとっとと移動させたほうが身のためだ。


 名前を訊かれたので、峯本俊介みねもとしゅんすけと名乗る。お返しに、彼女も簡単な個人情報を開示してくれた。


 小池かなで

 十九歳。

 菅美の油絵科に通う、浪人一年生。


「きみは、油絵科に決定だね」


 彼女の発言に僕は面食らった。

 崖っぷち浪人生とは違い、デザインでも彫刻でも工芸でも、何でも選択する余地が僕にはあるはずだ。それなのに「油絵科に決定」だなんて、随分と勝手なことを言われてしまった。


 しかし、驚いたのはそれが理由ではない。

 正式に菅美に入るなら、彼女に言われた通り、油絵科にしたいと前々から思っていたのだ。


 店内に絵を運び入れる彼女ために重いガラス戸を開けてやった。彼女の頭から帽子が落ちたので拾い上げて渡した。つややかな黒い髪を生やした頭のてっぺんには、タンポポもガーベラも見当たらない。


「どうして『油絵科に決定』なんですか?」


 念のために訊いた。もし読心術の使い手だったら距離を置いたほうがいい。


「私と同じ目の持ち主だから。……きみも絵画の才能があるよ、きっと」


 他の人には見ることのできないらしい三文字を指して彼女は笑い、暖かく光に満ちた店の中に戻っていった。

 「セントラル・菅田二丁目店」と書かれたガラス戸をしばらく眺めてからきびすを返す。一人でとぼとぼと道を歩き、小川に架かる短い橋の中腹で立ち止まる。前から並列走行の自転車たちが来たので道を譲った。歩行者が一番偉いのだからそんなことをする必要はないのだけれど、用心だ。


 冷えてもげそうな両耳に手を当てながら上を向く。大きなほこりが落ちてきたと思ったけれど、それはひとひらの雪だった。


 雪の色は「白」ではない。

 少なくとも僕には色づいて見えていた。

 厚く積もった雪の下に隠れているのが草木なのか土なのかによって、全く違う色となる。その日の天気によっても雪は簡単に色を変えてしまう。「ばーか」という文字を書いた小池奏だって、僕に同感してくれるはず。彼女も雪の色をただの「白」とは表現しないだろう。


 僕は生まれつき、たくさんの色を識別することができる。


 ひよこの雄と雌ほどの違いしかない色同士だって、容易に見分けられるのだ。

 しかし、優れた色覚に恵まれている反面感性は乏しかった。ラミネート加工されたファミレスのメニューほどの薄っぺらさだ。色覚をのぞけば僕は平々凡々な人間だった。それはこの外見にもよく表れている。


 雪景色の中で空に手を伸ばす小池奏を思い浮かべた。

 彼女の姿を絵に描きたい。きっと良い絵になるだろう。

 なけなしの想像力しか持たない僕は、そんなことを考えながら、冬の帰り道をたどるのだった。


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