1-2 恩人
「気にしなくていいよ、そんなの」
背後から声を掛けられ、被害妄想を中断した。
投棄されていた油絵のモデルと彼女はどことなく似ていた。「作者と絵は似る」と言っていたのは確か、ジャージマン。中学の美術部の顧問だ。
彼女も僕の横へ来てカンヴァスを支えた。
「こんなに大きな絵、店の中に持ち込んだら邪魔かなーと思って。でも、他に置いておけそうな場所も無いし。……どうなってもいいんだけどね、こんな絵。全然上手く描けなかったから」
怒っているような顔をしているが、口調はのんびりとしている。「上手く描けなかった」という台詞は謙遜している風には聞こえなかった。
「ひどいですね」と言うと、彼女はきょとんと首を傾げる。僕は絵を指さした。
「誰が書いたんですか、こんな悪口。とても良い絵なのに」
「……見えるの!? すごーい!」
ふちの太い眼鏡の奥で、茶色の目が輝く。
鼻水が垂れないように気を付けながら、今度は僕が首を傾げた。
「先生にも友達にも、誰にも見えなかったのに。あなたも私と同じ色覚なんだ!」
すごい、すごい!と彼女は繰り返す。ショッピングモールのくじ引きで一等が当たった時のような喜びようだ。呆気にとられたが、「色覚」という単語のおかげですぐに状況を飲み込めた。
――この「ばーか」という落書きは恐らく、僕と彼女しか読み取ることができないのだ。
「
彼女はカンヴァスを立てかけようと試行錯誤しながら、僕が提げている紙袋に視線を注いでいた。そこにはでかでかと「
「いえ」
ず、と洟をすすりながら首を横に振る。
「今日、初めて行ったんです。体験で」
この紙袋のせいで、近所にある菅田美術予備校の体験授業に参加したことがばれた。
「体験の子は、木炭デッサンだよね?」
「はい。基礎科生に混じって石膏デッサンをしてきました」
彼女に菅美の生徒なのかと尋ねると、案の定「そうだ」と答える。今晩は菅美の浪人生たちでセントラルに集まり、少し早めのクリスマス会を開催しているのだと教えてくれた。
「ねえ、洟をかんでみて。木炭デッサンした後って、鼻水が真っ黒になるんだよ」
不動産屋の広告付きのポケットティッシュを差し出す彼女の頬には青い絵の具がついていた。自分のポケットの中にも新品のティッシュがあるのを思い出したが、せっかくなので一枚だけ頂戴し、ずず、と洟をかむ。
「どう? 黒くなった?」
彼女は嬉しそうに手元をのぞいてきた。出会ったばかりの人間の排泄物を見ようとするなんて、美術の道を志す人間はやはり変わっている。
「同じ穴のムジナ」の「ムジナ」って、どう書くんだっけ。
そんなことを考えていた時だった。
タイヤが道路をぎゅっと擦りつける音がした。
セントラルの駐車場のすぐ隣の道を走っていた車がブレーキをかけたのだった。同時にクラクションが長々と鳴り響く。
自分に向かって鳴らされたわけではない。急な車線変更に対する警笛だ。被害が及ぶ範囲の外にいる。
それは十分にわかっている。頭の中は冷静なのに、体はストレスを感じて反応していた。つい身をすくめ、叫び声まであげそうになる。発汗し下着が湿っていく。
数年前のある日、僕の心と体は別々になってしまったのだ。病院やカウンセリングにも通って元通りに直したつもりでいるけれど、ほころびに爪を食い込ませれば、また簡単に亀裂が入るほど
目の前にいる彼女には、僕の反応はさぞ奇妙に映っていることだろう。
しかし、彼女の目は僕ではなく、トラブル発生中の道路に釘付けになっている。
そしていつの間にか、使用済みのティッシュごと僕の手を握っていた。鬱血しそうなほど強い力だ。
僕の体が散り散りにならないよう、必死に繋ぎとめてくれているみたいだった。
そのおかげか、僕は早くに落ち着きを取り戻して、彼女の体温の高さを感じる余裕すら生まれていた。
恩人の横顔を眺める。横からだと、眼鏡のレンズが彼女の目を小さく見せていたことがよくわかった。
クラクションを鳴らした運転手が前の車に罵声を浴びせてからやっとアクセルを踏んだ。東京都との境目に位置するのどかな街が、再び安寧を取り戻す。
「ホンダ対トヨタでしたね」
はっと彼女が振り返り、ぎこちなく笑ってからやっと僕の手を離した。
とくとくと、指先にまた血が通い始める。
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