名のない光が結ばれる
ばやし せいず
第1章 ばーか
1-1 ばーか
鼻水が黒い。青や紫の部分もあった。
未成年だから喫煙したことは一度もないけれど、
使用済みのちり紙をじっくりと観察していると、テーブルにぬっと手が伸ばされた。店員の若い女性が空いた皿を下げに来たのだ。ここが飲食店だということを、ようやく思い出す。
彼女は無言で去っていった。気が付けば、テーブルの上からコーラが無くなっている。食べ終えたアラビアータの平皿と一緒に、飲みかけのグラスまでも回収されてしまったようだ。
ローカルチェーンのファミレス「セントラル」のパスタは、味オンチの僕にとっては可もなく不可もなく。この店のセールスポイントは質より量、安かろう悪かろう。店員は必要以上のサービスや愛想笑いを提供しない。だから、今現在も夕飯時とは思えないくらい店内には人気が無い。僕がこの店の常連になった理由だ。
もう一度ドリンクバーに向かうために腰を上げる。せっかちな店員のせいで、この席に居座る理由を作らなければいけなくなった。
立ち上がると同時に、間抜けなメロディのチャイムが響く。新規の客の入店を知らせる音だ。
冬の冷気をまとって入ってきたのは、僕より少し年上の、大学生くらいの男女たちだった。真剣に数える気はないけれど、十人以上はいるみたいだ。貸し切りのパーティールームだと勘違いしているのか、きゃあきゃあと騒ぎながら店内になだれ込んでくる。
全員がサンタクロースの赤い帽子を頭に載せていた。おそろいかと思いきや、少し黄味がかった赤のサンタ帽が二三名まじっている。数が揃わなくて、別の店で購入したのだろう。だから、色が違う。
あの帽子を取ったら、それぞれの頭のてっぺんに多種多様のお花が生えているかもしれない。
「こちらのお席へどうぞー」
いつにも増して不愛想な店員が彼らを案内したのは、ちょうど向かおうとしていたドリンクバーの、すぐ前の席だった。下っ端のサンタたちが水を調達するためにさっそくサーバーの前に集まっていく。
「おすすめは何だっけ」
椅子に上着をかけながら、中堅と思しきサンタの一人が訊く。
「海鮮丼。店の冷凍庫の味がした。ミックスピザはコーンの汁でびちょびちょ。でも一番はアラビアータだな。シンプルに、味が薄くてただただ
席は離れているが、声が大きいので彼らの会話は筒抜けだ。
どうやらこの悪評高いファミレスのメニューを、美味しくない順にランキング化しようという趣旨で訪れたらしい。
「ドリンクバーのサービスが無かったら完食できないわ。この店の料理は」
「ほんと。ドリンクバーが一番まとも」
「アラビアータ大」、「ドリンクバー」と記された伝票を筒から引き抜いてレジへ向かう。気分の悪いイベントの観客になりたくはなかった。この店で一番まともなコーラのおかわりを諦めてさっさと退出しなければ、サンタ帽を
「お待たせいたしましたぁ」
「よしだ」と書かれた名札を付けた店員が僕に気付き、レジまで駆け寄ってきてくれた。微笑むよしださんの口元には薄い
僕がこの店に初めて訪れた時も、彼女は慣れた様子で会計をしてくれた。つまり、二年以上はこの店で働いているということになる。愛想が良く、気も利く彼女がセントラルの同僚たちの間で浮いた存在になっていやしないか、赤の他人ながら心配になる。
受け取った釣銭はいつも通り、レジカウンターの脇にある募金箱に突っ込んだ。いつからそこに置かれているのか、
「いつもありがとうございます! 若いのにえらいわねえ。なかなかいないわ、こういう人」
彼女は突然、店員と客との間の垣根を飛び越え、心理的な距離を詰めてくることがある。街角の宗教の勧誘くらい出し抜けなので戸惑ってしまう。
「少ないですけど」
口をもごつかせながら返事した。彼女は「またご利用くださいませ」と定型句を被せ、そそくさと厨房に戻っていく。団体が来店したから忙しくなったのだ。珍しく。
「モーニング、はじまります!」と書かれたチラシが目に留まり、束の上から一枚貰って店を出た。
暖房でだらしなく弛緩した体が冬の風で一気に引き締まる。夜空には十二月のきんと冷えた雲が覆いかぶさっていた。今夜から未明にかけ、雪の予報が出ていたことを思い出す。僕を店から追いやった大学生たちが雪にはしゃぐ姿を想像すると悔しくなった。
近くで何かがガタガタと音を立てている。足を止め辺りを見回した。
音の正体は、一枚のパネルだった。セントラルを囲む花壇と食品サンプルのケースの間にパネルが挟まれていた。身長の三分の二くらいの大きさで、強い風のせいで今にも倒れてきそうだ。看板か何かが飛ばされそうだとよしださんに報告したほうがいいかもしれない。
くしゃみをしながらパネルを奥へ押し込もうとして手をとめる。このファミレスに関連するものかと思ったのだが、それは一枚のカンヴァスだった。パイプ椅子に腰掛けた裸の若い女性が油絵の具で描かれている。
だらしなく太っているわけでも、よく締まっているわけでもない裸体が生々しい。乳輪も陰毛も遠慮なく描写されている。
パイプ椅子と人物を描くのは美大や芸大を目指す予備校生と相場が決まっているが、この絵はお手本になりそうなほど上手い。作者はきっと、この国で一番の難関とされる藝大の合格も期待されているに違いない。
でも、ろくに絵画の勉強をしたことがないからそう思うだけで、本当はたいしたことがないのかもしれないと思い直す。こんなところに不法投棄されているくらいなのだから。
カンヴァスは風を受けてまた倒れそうになる。倒れたらせっかくの絵の表面に土埃が付きそうだ。角度をつけたり横向きに倒したりしてどうにかこうにか安定させようとするけれど、なかなか上手くいかない。
ふと違和感を覚え画面に目を凝らした。
裸の女性の隣には、三つの文字があった。集中して鑑賞しなければわからないほど薄く、背景にひらがなが殴り書きされているのだ。
「『ばーか』」
僕は声に出してその三文字を読み上げる。小学生もあえて書かないような幼稚な内容だ。しかしそれは自分に対して向けられたメッセージのように感じられた。
ちょうど今日、一生懸命描いた木炭デッサンを人前でこき下ろされたばかりだったからだ。それからずっと心がくさくさとしていたが、この言葉によって完全に打ちのめされた。
講師や他の生徒のみならず、あの場にいなかった父までが僕のことを嘲笑する場面を想像する。
「気にしなくていいよ、そんなの」
背後から声を掛けられ、被害妄想を中断した。
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