3-4 全部大丈夫

「僕の娘は天使ではなかった」


 画家にとって、作品たちは手塩にかけた我が子のようだろう。

 しかし彼は深淵に臨むような顔つきをしている。その凄みに、それ以上「どうして」とは責められなかった。

 しかし疑問は尽きない。


 この会場にいる全員が全員、真剣に「天使の絵」をのぞきこんでいる。見えているのはただの人影だろうけれど、彼らはこんなにも喜んでいるのだ。

 それなのに、どうして。


 僕は彼が帽子を被っていることに初めて気が付いた。会場の外に出るつもりだったのかもしれない。気が利かずに足止めをしてしまった。


 いとまを告げると久保とスタッフの女性が出口まで見送ってくれた。

 階段を下り、一人でビルを出る。

 夏日が僕の旋毛を焼く。向かい側のファストフード店の新商品のポスターが目に留まり喉が鳴った。しかしあそこで父と待ち合わせしていたことを思い出し、急に食欲が失せてしまう。


 店に向かうため、信号の無い横断歩道の上をとぼとぼと歩いた。アスファルトの照り返しのせいでオーブンの中にいるような気分になる。まだ渡り終えていないのに、見るからに高そうなスポーツカーが目の前を横切った。


 カウンター席でアイスコーヒーを飲んでいた父とガラス越しに目が合う。

 父は手招きしようとしたが、その手を止めて眉をひそめた。視線は僕を通り過ぎ、もっと遠くを見つめている。

 僕も振り返った。


 さっきまでいたビルの前に、帽子を被った久保誠一郎がいた。やはり出かけるつもりだったのだ。悪いことをしてしまった。


 彼はきょろきょろと辺りを見回し、随分焦っているようにも見える。僕と同じように誰かと待ち合わせしていたのかも。

 彼が僕に気付き、数年ぶりに親友と会った時のような笑顔を見せた。手まで振っている。


 よく見ればポストカードを持っていた。僕が購入したものだ。せっかくサインをしてもらったのにデスクの上に忘れてきてしまった。


 大きい割に通らない声で「きみ」と呼ばれた。思い返せば、彼にまだきちんと名乗っていない。


 僕が渡り終えたばかりの横断歩道に彼も躍り出る。

 僕は思わず目を覆った。車道の脇を走るロードバイクと彼が衝突しそうになったからだ。ロードバイクは整備されていないのか、高いブレーキ音を鳴らす。


 恐る恐る目を開けると、運転手が逃げるように去っていくところだった。久保も驚いた様子だったが無言で自転車を見送る。僕に視線を戻すと恥ずかしそうに笑ってみせ、それからまた歩き出す。父だったら、怒鳴りながら自転車を追いかけていただろうなと思う。


 胸を撫で下ろすと同時にけたたましくクラクションが鳴り響く。

 ロードバイクを間一髪のところで避けたトラックだった。進行方向を変えた先には久保がいる。気が抜けていたせいで、今度は目を覆うことを失念していた。


 逃げればいいのに、迫りくる車体を久保はぼんやりと眺めている。

 そして駆け寄って来る自分の娘を受け止めるように両腕を広げた。


 しかし、彼に体当たりしたのは子どもではなく、二トン以上はある鉄の塊だった。衝撃に耐えられるほど、人間は怪力ではない。


 彼の体はトラックに押され、そのまま車体とガードレールに挟まれた。

 わあとか、ぎゃあとか、下手なお芝居みたいな悲鳴が上がる。


 僕はその場で腰を抜かした。

 叫べなかった。

 呼吸することも忘れていた。


「俊介っ!」


 いつの間にか店から出てきていた父に肩を強く揺すぶられた。

 ヒトは息をしなければ生きていけないということをやっと思い出す。しかし、いくら空気を吸ってみても僕の頭には酸素が届かない。


 父の顔からも血の気が引いていたが、僕に外傷が無いことを確かめると障害走のようにガードレールを飛び越えた。


 トラックには身動きしない運転手が乗ったままだ。彼もきっと僕のように酸欠になっているのだろう。車体の向こうで、父が怒鳴るように久保の名前を呼んでいた。


「久保さん、目は大丈夫ですよ! 目は……。全部、全部大丈夫だから!」


 そういえば、父は医者だった。クリニックでは人の生き死に関わらないようなことばかりやっているらしいけれど、医療の知識は一応ある。


 でも、どうして一言目が「目は大丈夫」なのだろう。

 真っ先に安否を伝えたほうがいい体の箇所は他にもありそうなのに。やっぱり、僕の父はずれている。


 夏の日差しを受けた道路が赤く輝いていた。血だまりの上に散らばったポストカードが葉っぱの船のようだ。

 僕がうっかり忘れてしまったポストカードたちだった。それぞれに天使が描かれている。


 角砂糖に群がる蟻のように、トラックの周りに人が集まり始めた。引きずり降ろされた運転手にみなが怒声を浴びせている。「その人は悪くないんです」と言い掛けた時、救急車のサイレンの音が近付いてきた。


 「助かった」。

 そう思った。

 僕はこれで人殺しにならなくてすむ。

 安堵する卑怯な自分に嫌気がさす。

 意識が遠のくのはこれで二度目だなと思いながら、僕は歩道に突っ伏した。



 目が覚めた時、僕は自分が人を殺したことを知る。



 久保も僕も、「助からなかった」。



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