3-3 今度こそ、本当に
数年後、第三志望の中高一貫校に入学することが決まった。父は約束通り久保誠一郎の絵を購入してくれた。
草原の上に崩れた教会が描かれている絵だ。合格祝いにはふさわしくないのではないかと両親は言ったが、僕には希望のある作品に思えた。教会から這い出て羽ばたこうとする天使が見えたからだ。
僕が一人暮らしを始めるまで、その絵は実家のリビングに飾られていた。サイズが大きく、マンションのリビングでは窮屈そうだった。壁の血痕を隠すのにちょうどいい風景画だと母が真顔で言った。受験も終わり、これで父と僕の関係はきれいに修復されたものだと彼女は思い込んでいるようだ。
実家でも自分の部屋は与えられていたが、父が留守にしている時はリビングに行き、絵に見守ってもらいながら勉強をするようになった。壊れた教会から脱出する天使に自分の姿を重ねると安心できるのだった。
中学に入学してしばらく経った頃、面談か何かの用事があって、父と二人で学校へ行った日があった。校内には保護者の使える駐車場が無いため、電車を使った。季節は夏だったと思う。車内は冷房がよく効いていた。しかし僕の体は太陽にさらされているみたいに汗が止まらなくなっていた。座席のシートに染みを作らないか不安になるほどだ。
「俊介は本当に汗っかきだな」
替えのタオルを取り出していると隣で父が笑った。
学校での用事を済ませ、僕たちは家とは逆方向の電車に乗り込んだ。降り立ったのは数年前にも訪れた場所だった。あのギャラリーで、再び久保の個展が開催されることが決まったのだ。
ビルの前まで来ると、父はそわそわしながら通りの向こうのファストフード店を指した。
「あそこで待っているから、終わったら来なさい」
僕は頷き父の背中を見送った。また長話が始まると思って嫌気がさしたのだろう。僕も父と別れたほうが気が楽だった。父と別れ一人で階段を上っていると、嘘みたいに汗が引いていく。
迎えてくれたのは以前とは違う女性だった。来場者は何人かいるが、画家の姿は無い。
今回飾られている絵のサイズは大きいものから小さいものまで様々で、その全てに天使が舞い戻っていた。
僕は会場のど真ん中で立ち尽くしてしまう。絵が僕を待ってくれていたような気がした。周りには数組の来場者がいたから、涙を抑えるのに必死だった。
全ての絵をじっくりと鑑賞したが、名残惜しくてなかなかこの空間を去る気になれない。
部屋の隅には長机が置かれていた。敷かれたクロスの上に、印刷したポストカードが数種類並んでいる。久保誠一郎の代表作を印刷したものだった。
「物販もしているんです。よろしければ」
スタッフの女性に声を掛けられた。僕はポストカードを一種類ずつ購入することに決めた。通学用のバッグから財布を取り出す。
会場と奥の部屋を仕切るカーテンが開いたのはその時だった。出てきたのは久保誠一郎だった。以前会った時よりも痩せたように見える。
目が合った。
彼も「あ」と発音する時の形に口を開けた。乾いた唇の周りに無精ひげが残っている。
「また人を描くようになったんですね!」
六十代くらいの夫婦が彼の元へやって来て、男性のほうが話しかけた。僕はスタッフの女性にポストカードの代金を払いながら耳をそばだてる。
「やっと新作が見られて本当によかったわあ」
夫婦揃って、とにかく絵を褒めちぎっていた。色使いがいい。癒される。そんなことを言われる度に久保は「ありがとうございます」とボタンを押されたみたいに繰り返す。
僕が受験勉強をさせられていたこの数年の間にロボットに改造されてしまったのではと心配になった。口にするのは燃料だけで、まともな食事をとっていないのかもしれない。
夫婦がやっと帰ると、久保は僕のほうに体の向きを変えて笑った。血色は悪いが人間らしい自然な笑い方で、僕はほっとする。
「お久しぶりです」
挨拶を済ますと彼はまず、僕の父が大きな絵画を購入したことについて礼を言った。父もこの場にいるべきだったなと考える。
「こちらこそ、素晴らしい絵をありがとうございます。家に大切に飾ってあります」
壁の血痕を隠すのに便利だと母も絶賛していました。
もう家を出て行きましたけど。
「ポストカードも購入してくださったんですよ」
スタッフの女性が久保に教え、そして何か思いついたという風に耳打ちすると、久保ははっとしてまた奥に引っ込んだ。
すぐに出てきたので早着替えでもしたのだろうかと思ったが、さっきと同じ少しよれたシャツを着たままで、手には太いペンが握られている。僕が買ったポストカードにサインをさせてほしいとのことだった。僕はもちろんお願いした。
「また天使の絵が見られて嬉しいです」
物販用のデスクの端でサインを書いている久保に話し掛ける。
彼は顔を上げずに「ああ」と生返事した。前回とは打って変わって、天使の話題に興味が無さそうだった。
久保は全てのポストカードにサインを入れてくれるようだ。丸めた背中を眺める。
やっぱり、ロボットになってしまったか、それとも誰かと中身が入れ替わったか。僕は邪推する。
「でもね」
彼はペンのキャップを力強く閉じた。シンナーの匂いがする。
「天使を描くのはもう終わりにしようと思う。今度こそ、本当に」
ペンを握りしめたまま絵が飾られた会場を見回している。
「どうしてですか?」
両肩を押さえて揺さぶりたくなったが堪える。そんなことをしたら、簡単に転倒してしまいそうだ。それほど彼の体は薄くなっていた。
「僕の娘は天使ではなかった」
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