3-8 星の赤ん坊

「あれ、どうして俊介くんが?」


 作業着姿の五十嵐は僕に気を取られ、父の不自然な表情には目もくれていない。


「私のせがれなんです。お世話になってます」


 父が頭を下げた。


「えーっ!? 苗字が同じだとは思ったけど、まさか親子だったなんて」


 五十嵐は目を丸くさせながら長い髪をまとめる。


「ああ、でも並ぶと確かに似てますねえ。言ってくださいよ、もう」


 僕は父親と母親のちょうど中間くらいの顔をしていると、色々な人から言われてきた。

 中身はどうだ。

 神経質な母と無神経な父のちょうど中間くらいだと思っている。

 父は必ず募金するが、母は絶対にしない。父は味オンチ。母は店舗によってフライドチキンの味が違うとよく語っていた。


 父も母も、天使を見ることができない。



「首尾はどうです。私も手伝えたらいいんだけど、足手まといになるだけだから」

「ばっちりですよ。このあと助っ人もわんさか来るんで。夕方には終わりますね」


 二人を見比べた。いつ知り合ったのか見当もつかない。しかし父と五十嵐は気が合いそうだ。

 少なくとも、父と久保誠一郎よりは。


「五十嵐先生、すみません。部外者なのに勝手に入って。まだ搬入中なんですよね」

「部外者? 峯本さんが? まさか」


 五十嵐は目を見開いて笑った。


「峯本さんのおかげでこの個展が開けるんだから」

「おかげって?」

「峯本くんのお父さんはこの展示の一番のスポンサーなのさ」


 僕は父を見た。軽いいたずらがばれた子どもみたいに笑っている。


「こういうところって、すごくお金がかかるんじゃないの」

「かかるさ。なにせ一等地だ。子どもを私立の一貫校に行かせるくらいだな」


 学費一年分なのか六年分なのか。余計に具合が悪くなりそうで訊けない。


「罪滅ぼしだよ、俺の……」


 状況を飲み込めていない僕に父がぼそっとと呟く。


「僕はただの手伝いさ。菅美と青美では、久保先生にお世話になっていたから」

「久保さんは、菅美の先生もやっていたんですか」

「そうさ。菅美の先輩に小池奏さんっていただろ」


 ぎくりと五十嵐の顔をのぞく。


「彼女、実は久保先生の娘さんなんだ」


 にこにこしながら彼は説明する。


「……そうなんですか」


 一体、どういうつもりで奏の話なんてしているのだろう。その口で彼女の名前を語らないで欲しい。横っ面を張りとばしてやりたくなる。

 でも、彼は何も考えていないのだ、きっと。思慮深い人間は浮気なんてしない。

 ばかにつける薬は無い。

 ばかは死ななきゃ治らない。

 寝ている隙に、彼の額に「ばーか」と書いてやったとしても、笑い話にされてしまうのだろう。


「でも、親子で苗字が違うんですか」父が訊いた。


「久保先生は結婚して婿養子になったんです。それからも『久保誠一郎』と名乗っていましたけどね」


 奏にジャイ子にジャイアンに星子。名前なんてどうでもいいが、「活動名」となるとまた話は違ってくる。


「そろそろ失礼しようか。邪魔したね」

「いえ。明日のオープニング、よろしくお願いしますね」


 父は五十嵐に頭を下げると僕の肩を支えた。


「いいって、そんなの」


 恥ずかしくなって父の腕を払う。


 振り返った出入口の右わきに、飾りつけを待つ真っ白いカンヴァスが置かれている。ここに入ってきた時には気付かなかった。


「あれも絵なんだよ」


 僕の視線を追った五十嵐がカンヴァスに近付き、ひょいと持ち上げた。


「ただの白いカンヴァスに見えるだろ。よく見て。絵の具の隆起があるでしょ。久保先生が最後の最後に取り掛かっていた作品なんだ」


 彼はカンヴァスの中央の辺りを指す。


「僕には全然わからないんだけど、月のような円いものと人影が描かれているらしい。『天使の絵なんだ』って本人は言っていたけど」

「……見えません」


 やっぱり、父に体を支えてもらう必要がある。

 またくらくらしてきた。


「ああ、ごくわずかな人しか見えないみたいだね。久保先生の親戚の人も色彩感覚は豊かだけど、でも天使の翼だけは見えないって嘆いていた」


 その「親戚」というのは恐らく久保誠一郎の姪にあたり、珍しい苗字をしているのだろう。もうすぐ「五十嵐」に変わるのかもしれないけれど。


「この絵はずっと、天使が見える人を待っているんだよ」

「天使じゃありません」

「え?」


 僕は白い絵から目を逸らすことができなくなっていた。

 カンヴァスの表面を凝視する。漆黒の夜空から星の赤ん坊を見つけ出すかのように。


 描かれているのは一人の女の子だった。

 奏にそっくりだが、眼鏡はかけていない。

 天使の翼も持っていない。

 背景には、五十嵐が言ったように巨大な円がある。しかしそれは月ではない。十字に格子がかかり、錠も付いている。

 これは窓だ。

 窓の周りには無数の星が描かれている。少女や窓は写実的に描かれているのに対し、星はイラストのようだった。


 僕はこの場所を知っている。

 電波望遠鏡の話をしてくれた奏の部屋だ。


「俊介、どうしたんだよ」


 様子のおかしい僕を父が笑い飛ばそうとしたが、すぐにやめてくれた。


 窓を背景に立つ少女はこちらを真っ直ぐに人差し指を向けている。


 たった一度だけ訪れた奏の部屋を頭の中で再現した。


 絵の中の奏が指差す方向にあったのは、夫婦やカップルが寝そべることのできる大きなベッド。

 その上には一枚の絵が飾られている。久保誠一郎の一人娘が描かれた大きな絵だ。


――天使が見える人を待っている。


 五十嵐の言葉が耳の中で再生された。

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