2-5 無題/小池奏/油絵科
建物の中は薄暗く、揮発した油のにおいで満ちている。油絵を習い始めた時には、喫煙所の前を通り過ぎるくらい不快に感じたが、慣れた今は、もはや肺いっぱいにこのにおいを取り込みたくなる。中毒性があるのかもしれない。
僕は開放された教室を一つ一つ見て回っていくことにした。
普段は学生たちのアトリエとして使われているのだろう。壁も床も、絵の具が大胆に飛び散っている。どの部屋も広く、天井は高い。その空間に、僕の身長を優に超えるサイズの作品たちが並べられている。作品は予備校の講評の時のようにぎゅうぎゅうに詰められているのではなく、一つ一つがゆったりと間隔を取って展示されていた。作品が他の作品に干渉することはない。
絵画の他に、立体や映像の作品も多かった。他の科の生徒の作品が混じっているのかと思ったが、キャプションには一様に「油絵科」と表記されている。
サイズや使用画材が制限される「受験絵画」とは比べものにならないほど自由だった。ここに入学して作品を作る自分を思い浮かべるとわくわくしたが、同時に不安にもなる。「さあ、今日から自由に歩いていいよ」なんて言われたら、今まで自分がどのように歩いていたか忘れてしまうだろう。大学に入ったら、僕は作品の作り方を忘れてしまうのではないか。そう思うくらい、青美生たちの作品は自由だった。
一番の目当てだった小池奏の作品は見つけられないまま最上階についてしまった。
最上階で入室できる教室は一部屋しか無く、僕以外に人もいない。最後の部屋にも絵画と立体作品が展示されていたが、やはりここにも彼女の作品は無かった。
一通り見終わってしまった。コスプレクロッキー大会に参加してから帰ろうと考えていた時、部屋の奥の角が不自然に空いていることに気が付いた。近付いてみると、壁にICカードほどの大きさのキャプションが張り付けられている。
目を凝らす。「無題/小池奏/油絵科」と印字されていた。
「すばらしい」
人がいないのをいいことに、声に出して頷く。
何も無いこの空間でアートを感じろということだ。壁や床の染みをじっと見ていると、なるほど、ジャクソン・ポロックのオマージュを思わせる。
知り顔をしていると、布を豪快に割くような音が聞こえてきた。開け放たれたガラス戸の向こう側からだ。通っている高校と同じように、戸を開けた先にはベランダがあった。くもりガラスの向こうで人影が動いている。
切り裂いた布を人影が教室の中にぽいっと投げ込んでいく。床に落ちた絵を見て、僕は息のんだ。
それは予備校時代の小池奏の絵だった。
見違えるはずがない。奏が懸命に描いてきた絵がずたずたに切り裂かれ、ゴミ同然に投げ捨てられていた。
「おいっ……!」
僕は腹の底からうなり、ベランダにとび出た。
ハサミを手にした犯人がいた。
しかし、犯人は僕が探していた人物でもあった。
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