2-3 出来損ないに合わせてあげる
「――峯本くんねぇっ、まだ時間あるんだからねぇっ、今のうちに形を直しちゃいましょうねぇっ、このままだとねぇっ……。ふふふっ」
講師の岩井のモノマネをやり切る前に、彼女は吹きだしてしまった。
「青美でも愉快にやってるんだろうね」
僕は自分の顔がほころんでいくのを感じながら、彼女の頭に乗っていた桜の花びらをつまむ。
まだ生徒の集まらないアトリエの隅で、僕たちはしばらく談笑を続けた。
楽しそうに青美の話をする彼女の髪は金色でもピンクでもなく、今まで通りの自然な黒だ。アイシャドウは変えたようだが色は薄い。
出会った時と何一つ変わらない彼女の姿に、僕は安心していた。派手な大学デビューなんてされていたら、きっと置いてけぼりをくらったような気分になっていた。彼女の変化をとめる権利なんて無いのに。
「油絵、これで何枚目?」
彼女に訊かれ指を五本折る。
「へえ、慣れるの早いね。色もいい感じ。調和がとれてる。さすがだね」
「さすがだね」の響きは「尊敬する」ではなく、「認めてやる」に近い。
「でも、悩んでるんだ」
僕はスマホを取り出して、先週の課題だった静物画を見せた。「油絵を始めたばかりなのに色合いは悪くない」と、岩井にも言われている。しかし僕の描いた赤い林檎と赤いブロックは、どちらも同じ色に見えると言われてしまったのだ。
「色に差をつけるのが課題だねぇっ……て、岩井先生から言われた。下に塗る色を変えるのがいい? どう思う?」
「なるほど。私たちには全然違って見えるのにね」
「そうなんだよ」
僕は興奮気味に頷く。
「青と赤くらい違う色で塗ったつもりだったんだけど」
岩井から「同じ色に見える」と言われた時、僕は彼の髭面をぽかんと見返してしまった。
僕の目には林檎は黄みがかって見えていたし、ブロックは紫に近い色だった。油絵の具もその通りに塗っていたつもりだった。
その昔、舌足らずだった僕の絵を引き裂いた保育士は、恐らく絵画に精通していなかった。(今思えば保育士としての気構えすら怪しい)。
しかし作家として活動し、講師としても長けた岩井とも色について分かり合えないとは思ってなかった。
僕は焦りを感じていた。見たままに描けば評価されると信じていたのだが、思惑は外れたのだ。
「納得できないこともあると思うけど、受験を突破するための方法は一つ」
画面をのぞき込む彼女の表情は真剣そのものだった。
思い返せば彼女が制作している様子を一度も見たことが無い。きっと今と同じ目をして、モチーフとカンヴァスを睨んでいるのだろう。その眼差しを今は僕の絵に向けている。シャンプーの香りを感じられるほど近くで。
「出来損ないに合わせてあげるんだよ、俊介くん」
彼女の口にした単語は、ポップコーンの箱の下に隠れていたトウモロコシの硬さを連想する。自宅から車で一時間半かかる場所にある遊園地を、母はいたく気に入っていた。離婚するまではその有名なテーマパークに家族でよく訪れた。
必ず購入したのがキャラメル味のポップコーンだ。軽い触感が僕も好きだったけれど、三口も食べれば満足してしまって、それ以上手をつけることはなかった。
しかし小学二年生の時は無性に腹が減っていて、僕はアトラクションの列に並びながら、貪るようにポップコーンを消費していた。半分ほど食べたところで口の中で音が鳴った。異物だと思って慌てて吐き出したが、それは熱で弾けず、ポップコーンにならなかったトウモロコシだった。欠けた自分の歯かと思わせるほど硬かった。
人生経験の浅い僕はトウモロコシの不快感に腹を立てたけれど、両親は「そんなものだ」と言って相手にしてくれなかった。
「わかりやすく色を塗ってあげるのが、特別な才能を持っている人の優しさであり使命なの。他の人は赤と青と黄色くらいしか認識できないんだって気持ちで描いてみて。己の個性を殺し、受験絵画だと思って割り切るんだよ」
「精神論で突破しろってことだね」
僕が納得すると、彼女はいつものように笑った。
「飲み込みが早くて助かるわ」
きみについては、飲み込めていないことがたくさんあるけどね。
自分の気持ちを見透かされないよう僕も笑ってみせた。
五十嵐先生との関係は?
それから、もし僕に特別な目が無くて、きみにとっての「出来損ない」だったとしたら、今のようにかまってくれた?
僕は味オンチではあるけれど、異物同然のトウモロコシを看過できるほどのんきではない。
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