2-2 翻弄
「病気になるぞ」
事務机の前でふんぞり返る桜井に手を払われた。
彼は僕が属することになった三年二組の担任だ。僕の二年生の時の成績表を眺めながら「目は擦らないほうがいいらしい」と窘めてくる。
あんなことをすると癌になるらしい。
こんなことをすると寿命が縮むらしい。
世の中には眉に唾をつけたくなるような情報が溢れてかえっている。しかし、放課後の職員室で受けた桜井からの忠告は、あながち間違っていない気がした。
花粉に反応する両目から手を離し、行儀よく膝の上に乗せる。これが一番の得策だ。不毛な二者面談をさっさと終わらせたいのならば。
「峯本は美大に行きたいんだって? ……第一志望が藝大、第二志望が青美、か」
あれからもう一度、父と会う機会があった。予想通り一方通行でほとんど話し合いにならず、学費は父が全額出すと勝手に決められてしまった。
この上なく有難い話だが、大学を卒業した後にはきちんと父に返すことに決めていた。それがけじめというものだ。僕が描いた絵が売れればそのお金で、売れそうになければきちんと就職して、少額ずつでも返済していくつもりだった。
そうと決まれば、学費は一円でも安いほうがいい。国立である藝大に入学するのが理想なのだが、入りたいからといって簡単に入れてもらえるような大学ではない。記念受験に終わるだろう。
現実的な第一志望は、やはり青木葉美術大学だ。
「藝大っていうのは、東大より倍率が高いっていうじゃないか」
どこかで聞きかじってきたような桜井の意見にも一理ある。しかし公表されている倍率というのは、そこまであてにならないのである。
「僕のように記念受験する人も多いみたいですからね」とやさぐれる代わりに、「精一杯励もうと思います」と当たり障りない態度をとった。
この高校に美術部は無い。美大や芸大に進む生徒も毎年一人か二人しかいないらしい。
「藝大は望みが薄い」。そんな薄い情報しか持ち合わせていない教師と面談したところで進展しないのは目に見えている。
時間の無駄だ。
僕はとにかく、何の実りも無さそうなこの二者面談を終わらせて、一刻も早く
晴れて女子大生になった小池
「藝大以外の国公立については調べたのか?」
桜井は口頭で他の芸大をすすめてくる。しかしどれも飛行機の距離だった。国公立への進学実績を挙げないとボーナスに響くのだろうかと勘繰ってしまう。
「自宅から通える大学を考えていますね。親に負担を掛けたくありませんから」
経済的余裕がある故にぼんやりしているわけではなく、確固たる考えを持っていることを証明するために口角を上げた。
万が一、下宿することが決まればアルバイト代から家賃を出すつもりだが、父は僕を無視して新たにマンションを購入するんじゃないだろうか。有り得そうな未来を想像すると、僕の微笑みは苦笑いに変わる。
「やーめろって」
不用意に笑ってしまったことで新しい担任からの信用を損ねたかと心配になった。しかし、桜井がやめさせたかったのは苦笑いではなく、目を擦る行為だった。無意識のうちにまた自分の目を触っていたらしい。
「そういや、峯本は眼鏡、持ってんのか?」
「眼鏡ですか? いえ」
眼鏡と聞いて、真っ先に小池
「授業中、黒板を睨んでいるだろ。早めに眼科へ行って矯正したほうがいいぞ。これから本格的に忙しくなるからな」
言われてみれば、遠くのものが見えづらくなったかもしれない。
視力検査も兼ねて職員室の時計を見上げた。文字盤がかすんでいる。これではどれくらい無駄な時間を過ごしたのか、正確に計ることはできない。
「失礼します」
面談が終わると僕はバッグを抱え、逃げるように職員室を出た。僕の志望校は少しも揺るがなかったが、近いうちに眼科へ足を運ぶことだけが無事に決定した。
やっと菅美に到着する。一眼レフカメラを構えた同級生が僕に気付いた。菅美の前の公園に咲く桜を撮っていたようだ。
「小池さん、さっきまでいたよ。どっか行っちゃったけど」
「ありがとう」
曖昧で役に立たない情報にもきちんと礼を言い、事務室や講師室や各アトリエを見て回る。しかし彼女の姿は無かった。
久々に会うことが叶わず、しょんぼりしながら授業の準備をしたが、描きかけの油絵に向き合ってからは気を取り直した。受験本番まで一年も無い。藝大どころか、青美に合格する実力だって、今の僕には無い。
自分のカンヴァスをイーゼルに立てかけ、でき得る限り距離を取る。久保誠一郎の絵画を鑑賞する時のように。
自分の絵から離れ、客観的に画面を眺めることが重要だと講師たちから教わっていた。
戦闘服であるつなぎを着ながらアトリエの壁に向かって後ろ歩きしていると、誰かにぶつかった。
「すみません」
振り返ると、既に帰ったと思っていた奏が難しい顔をして立っている。
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