第2章 出来損ない

2-1 五十嵐

 テレピン、リンシード、ペトロール。絵の具に混ぜる油たちは、魔法道具のような名前をしている。

 絵の具の色だって、カドミウムレッド、バーミリオン、コバルトブル―、ウルトラマリン、レモンイエロー、イエローオーカー……。

 「赤」や「青」や「黄色」ではなく。


 菅美すがびの一階には猫の額ほどの売店があり、天井まで届きそうな棚にずらりと画材が並べられていた。

 講師が作ってくれたメモを見ながら、買い物カゴに必要な道具を入れる。カゴには「菅田美術学院」ではなく、近所のスーパーの店名が書かれていた。


 今日から春期講習が始まり、僕は予定通り油絵科に入ることが決まった。新品の絵の具のチューブに触れると心が躍る。自分の目に映る世界を一刻も早くカンヴァスの上に表現したい。

 しかしレジで会計を済ますと財布が急に薄くなってしまって気持ちがしぼみかけた。去っていった紙幣たちも、自分ではなく父親が稼いだものだと思うと惨めになる。


 購入した画材一式は二つの大きな紙袋に分けて入れてもらった。底が抜けそうな重さだ。今からこれらを一人で三階の油絵科のアトリエまで運ばなくてはならない。


 売店を出ると、コンクリートの外壁にくっつけられた掲示板の前に生徒たちがたむろしていた。先日桜を散らしたばかりの浪人生だ。

 受験シーズンも終わり、掲示板には各美大、芸大の合格者の名前がずらりと並べられている。右上の最も目を引く大学名は、もちろん藝大の正式名称だ。菅美は小さな美術予備校ながら、昨年度は五人も合格者を出したらしい。

 小池かなでの名前はそこには含まれておらず、「青木葉美術大学」と書かれたプレートの隣にのみ掲げられていた。


「まあ、よかったんだろうね」


 浪人生の一人がしんみりと呟く。

 その横をすり抜けて菅美の外階段を上った。


「小池サンも藝大じゃなくて、青美に行きたいって言ってたし」

「勿体ないよね。あいつ、めちゃくちゃ上手いのにさあ」

「仮面浪人も考えてないんだって」


 荷物を下に置いて休憩するふりをし、踊り場で足を止める。


「健気だね。彼氏が出た大学に入ろうなんて」

「もうとっくの昔に卒業してるのにねー」


 あと一歩で悪口になってしまうことをそれぞれが自覚し、ぐっと踏みとどまった上で成立しているような会話だった。


「とっくに終わっているらしい。あの二人は」


 踊り場からでは姿は見えないが、この低い声の主は金髪の男子多浪生だ。年齢は知らない。


「うそお、なんで?」

「五十嵐先生、結婚するかもって」


 黄色い声が上がる。忘年会の日、講師たちのお金でご馳走が食べられると判明した時と同じ声色だった。


「相手は?」

「知らない」


 僕はわざとらしくため息をつき、また階段を上り始めた。




 アトリエの端にはカラーボックスが置かれている。画集や大学の資料の他に、菅美のパンフレットもあったはずだ。中を漁ると、一番上の段に最新号が突っ込まれていた。表紙は藝大デザイン科合格者の作品だ。


 一枚めくる。

 僕の目を引きとめたのは、奏の描いた自画像だった。浪人中に描いたもののようだ。見たところ、薄い字の落書きはない。表紙こそ藝大合格者に譲ったようだが、彼女の油絵だって優れている。


 ページをさらにめくった。目当ては意中の相手の作品を探すことではない。

 パンフレットの一番後ろには、菅美の講師たちが顔写真付きで紹介されていた。もちろん五十嵐も載っている。五十嵐の下の名前は「拓也」というらしい。年齢は見かけ通り。


 面白みのない名前と年齢にふんと鼻を鳴らしてから、スマホを取り出しさっそく検索をかけた。


 「五十嵐拓也」。


 検索結果のページの上位に青木葉美術大学のロゴが出てきた。


「優秀卒業制作作品一覧」。


 クリックすると、画面いっぱいの作品写真と「五十嵐卓也」という作者名が表示される。

 いくつもの人の顔が無理やり合体させられたみたいな塊。写真の中には鑑賞者もいて、その塊が見上げるほど大きいことがわかる。


 ページを一度閉じて、また五十嵐についての情報を探す。個展の知らせ、ライターが彼について書いた記事などが見つかった。大きなコンクールに入賞したことなんかが書かれている。


 彼の作品に比べれば、手元のパンフレットに載っていた作品たちは、所詮……。


 そこまで考えて、スマホをしまった。

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