1-15 光

 菅美すがびのアトリエに着く。

 イーゼルを広げ、自分のスペースを確保した。クリップでカルトンに紙をとめ、木炭の芯を抜く。


 授業が始まると、アトリエの中央に置かれた台に女性が上り、パイプ椅子にゆったりと腰掛ける。ドア付近に立つ五十嵐が「お願いします」と声を掛けストップウォッチを押す。モデルの女性は着衣しているが、ポーズをとっている間は生徒も講師もアトリエの外へ出てはならないという決まりがある。


 僕は絵が好きだ。


 モデルのポーズ中はもちろん、小休憩中も必死に手を動かした。昼休みになったがイーゼルの前から動かず、食事はコンビニのおにぎり一つで済ませ、誰とも口を利かず絵を描いた。一日がかりで描きあげた人物デッサンは、今までで一番好評だった。


 僕は絵が好きだ。


 描いている間は何も考えずに済む。一生懸命やったら、ほら、褒めてもらえた。油絵だってきっと認めてもらえる。鍛錬を積めばデッサン以上に褒めてもらえる自信がある。

 僕には特別な目があるのだから。

 きっと期待してもらえる。




 講評も片付けも済み、屋上へ足を運んだ。誰もいない。煙草の残り香も無い。手すりに触れようとして離れた。今にも飛び下りそうな雰囲気が体から醸し出されているだろうから、本当に通報されてしまうかも。


 物置の陰に身を潜めるようにしゃがむ。以前、かなでがトンカチの音を鳴らしていた場所だ。程よい狭さで居心地がよかった。


 ポケットティッシュを取り出し鼻水をかむ。かんでもかんでも垂れてきて、とうとうティッシュが一枚も無くなってしまった。


「虹色だね」


 顔を上げる。


「俊介くんの目撃情報があったから来てみた。今日もメッセージ入りでーす」


 奏は「あけおめ」と書かれた年賀状のような油絵を僕に見せつけた。僕の泣き顔を見て、彼女は慌てふためく。


「あ、あのねえ、みんなそうなの。けちょんけちょんに言われるの。私だってそう。それでも短期間でここまで上手くなったんだから、俊介くんだって合格して見返してやろうよ、ね?」


 懸命になって見当違いな励ましをする彼女を見ていたら、また涙が溢れてきた。


「ほ、褒められたんだ。今までで一番。すごく成長したって」

「じゃあ、嬉し泣きってこと?」

「何泣きか、わ、わからない。とりあえず、医学部じゃなくて、美大を目指してもいいって。頑張れって……」


 喉を詰まらせる僕に、彼女は何か察したようで「ああ」と頷く。


「俊介くんたち、いつの間にか帰ってたから、話し合えなかったんだと……。なんだ、お父さんと話せたんだ。よかったじゃない」

「それは、それは嬉しいんだけど、……悲しいとか、く、う、悔しいとか、よく、わかっ……わからなくなって」


 一発ぐらいは殴られると思っていた。

 それなのに、父は「頑張れよ」とだけ言って話を終わらせた。スマホの没収すらされなかった。


 どうして泣いているのか、自分でもわからない。

 僕は父に殴ってほしかったのかもしれない。

 おまえにはがっかりだと言われたかった。僕は父から腫れ物のように扱われているものの、息子としてちゃんと期待されていたのだと実感したかった。


 絵なんて微塵にも興味が無い父。美大に合格できたとしても、「頑張れよ」と言われて、それでお終いだ。


 本当に応援している相手に、心から期待している相手に「まあ、頑張れよ」なんて言葉は使わない。


 これからの僕は父にとって、どのような存在になるのだろう。

 殴られていたあの日々は何だったのだろう。僕は、期待されていたのではないのか。期待という言葉も、口からの出まかせだったのか。


――もう少しだ!


 叫んで手を伸ばしてくる父が思い出される。プールで泳ぎの練習をしていた時だ。

――ほら、できたじゃないか! 俊介は天才だ!


 そう言って抱きしめてくれたのは、初めて自転車が漕げた日のことだ。そばには母も姉もいた。みんなでにこにこと笑っていた。


 劣悪なネット環境の下で、プレイリストの選択を間違えてしまった時のような気分だ。こんなこと、少しも思い出したくないのに。

 脳内で信号が上手く伝播できなくなっているらしい。父から殴られた時の恐ろしい記憶にはなかなか接続できなかった。あの日々の恐怖さえ再現できれば、僕はバンザイしながら小躍りすることができるはずなのに。


 望んでいた結果が今日やっと手に入った。それなのに素直に喜べていない。こんな風に泣いているなんて、僕も父のように少しずれているのではないだろうか。


 奏はよく描けている油絵をゴミのように投げ捨て、僕の隣に座った。


「じ、授業、……夜間の授業、始まる、よ」


 ほとばしるような涙のせいで目がうまく開けられない。しかし辺りが徐々に暗くなってきていることはわかった。濃紺の暗闇が虹色の空をどんどんと西へと追いやっているのだろう。


「私は上手いし、おまけに速いんだよ」


 彼女は絵本を読み聞かせるようにゆっくりと語り掛ける。それ以上は何も言わず、しゃくりあげる僕の背中を撫でた。


 受験目前だ。

 貴重な時間を、彼女は僕のためだけに使ってくれている。

 申し訳ない。情けない。恥ずかしい。

 体は冷え切っているのに、彼女の手が置かれた背中のあたりだけ、太陽の光をとっておいたみたいに暖かい。


 感情は、よく晴れた日の夕焼け空のようだ。

 一つ一つに名前なんて付けられないくらいの、様々な色を持つ。

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