1-14 アドリブ

「美大に行かせてほしいんだ」


 背中に汗がつたう。


 間違い探しの答え合わせするように、父は隣の席と僕を見比べた。そして、「医学部は?」と静かに訊く。不自然なほど平坦な口調に、身の毛がよだつ。


「せ、成績表を見たでしょ。仮に進学できたとしても国家試験をパスするなんてとても無理。絵の勉強がしたいんだ。絵を描くのが好きだから」


 用意してきた台詞を一気に喋ったせいで脳に酸素が足りなくなった。


「美大に行きたい」


 再び深く息を吸う。


「勉強よりも、絵を描いていたほうが褒められるから……」


 アドリブまで口からこぼれる。


「本当にごめんなさい」


 「そうか」と言って、父もカップを置きテーブルに左手をつく。腰を浮かせ、右手を僕のほうへ伸ばした。


 歯を食いしばり、拳が振り下ろされるのを待つ。

 これから僕は殴られる。ぼこぼこに。


 でも、この二つの目だけは無事でありますように。

 明日からも、特別な世界が見えますように。


 何かにそう願いながら、僕は後悔していた。まだ初詣に行っていないことを。特定の宗教に入っていないことを。願いを聞き届けてくれる「何か」はこの世に存在しない。


「まあ、頑張れよ」

 父は笑った。

 そして僕の肩に右手を乗せる。

 赤ん坊の薄い髪を撫でつけるみたいに優しく。


「……え?」

 それ以上の言葉が出てこなかった。


――『まあ、頑張れよ』?


「優香から連絡があったんだ」


 座り直した父は、母と暮らしている姉の名前を出した。


「将来はパパのクリニックを継がせてほしいって、頭を下げてきたのさ。だから、ちょうどよかった。……だから、いいかあ、俊介はやりたいことをやるんだぞっ!」


 時間をかけて父の言葉を飲み込んでから、僕は「うん」と頷き「ちょうどよかった」とオウム返しする。


 ぬるくなったコーヒーを飲み干した。さらに味が薄くなっている。


「美大だったら医学部に行くよりも節約になるしな。助かるよ」


 そう言うと、父はバラエティ番組に出演している大物俳優のような調子でいつものように一方的に喋り続けた。


――医者になった時、俺は周りからめちゃくちゃ褒めれたんだよな。なぜかって、俺の両親は医者じゃなかったからだ。優香や俊介みたいに、医者の両親から生まれた子どもってのは、かわいそうだ。プレッシャーが半端ないし、医者になったとしても「それがふつう」だと思われるだろうからな――。

 

 開業してよかったとか、大阪で学会があるから一緒に旅行するかという話をした後、母や姉の話題に移った。父と違って、僕は二人とは定期的に連絡を取っていたから、すでに知っている内容ばかりだった。父の話の内容なんて、ほとんど頭に入ってこなかった。


 本当は、もっとたくさんの台詞と演技プランを頭の中に用意していた。

 「がっかりさせてごめん」と言って、激昂する父を宥めたりとか、「もう僕に期待なんかしないでよ」と殴り返してやったりとか。「あの交通事故のことをお父さんは『きっかけ』だと思っているようだけど、僕は心にとどめを刺されたんだと思っているよ」とか……。


 父は陽気に話しながらケーキをすっかり平らげた。皿には余った木苺のソースが溜まり、赤い水たまりのようになっている。

 数年前に目撃した事故の現場を思い出した。あの時、道路に塗り広げられていた被害者の血の色に似ているが、やはり色合いが異なっている。こんな風に紫がかって見えなかった。


「なかなか良い店だったな!」


 伝票を手に、父は機嫌よくレジに向かう。僕も立ち上がった。アニメの話で盛り上がっている友人たちは僕らに気が付かない。

 レジによしださんがやって来た。僕たちを見るなり意外そうな目を向けてくる。受け取った釣銭を父が募金箱に入れると、彼女はマジックショーの観客のような、とびきりの笑顔を見せた。


「親子ですねえ!」


「ええ、はあ」

 父は声に戸惑いを滲ませながらも曖昧に微笑む。


「親子なんです。嫌になるくらい」

 僕は答えたが、別の業務に取り掛かろうとする彼女には聞こえなかったようだ。




 店の前で僕たちは別れることにした。


「まあ、頑張れよ」


 花壇に足をかけてストレッチしながら、父はさっきと同じことを言って、同じように肩に触れた。


 小学生の時、遠足に出かける朝にも「頑張れよ」と言われたことがある。持久走大会や、運動会が開催される日の朝も。中学受験の当日は言われなかった。血走った両目ばかりが思い出される。


 サングラスを装着した父が道を駆け出す。小さくなっていく背中を見送った。

 冬の日差しを浴びて気持ちよく走りながら、僕が美大に行きたいと話したことなんて、きっともう忘れている。

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