3-11 誰かに観測されるのを待つ

 まず、娘である奏が目の病気を患うずっと前から、久保の心が不安定だったということが書かれていた。


 とりとめなくその理由が綴られているが、無理に要約すれば、「気質」と言い表せるかもしれない。帽子をいじる指や、来場者に機械的に頭を下げる姿が思い出された。


 絵を描くことにより情緒は少しばかり落ち着くのだが、やはり誰からも、「天使」は認識されない。胸を襲う不安に矛盾して画家としてのプライドは高く、そのために一度は「天使」の絵を描くことをやめてしまった。久保は誰もが楽しめるような、人影すらない、ただの風景画を描くようになった。


 自尊心は守れたが、今度は絵が全く売れなくなったこと。娘の病気が発覚し、治療費を稼ぐためにまた「天使」を描くようになったこと。

 そして、感情と矛盾した行動を繰り返すうちに、希死念慮が芽生えてしまったこと。愛する娘のために献眼を申し出た時から、その気持ちが徐々に強くなってきていること。


「『残される家族のことを考えると辛くなる。誰かを巻き込んでしまうかもしれないと思うと苦しくなる。

 奏の目が一刻も早く治りますように。

またピアノが弾けるように。また絵が描けるように。

 天使のようなきみの翼が折れないことを祈っている。そのためなら、目でも何でも差し出すことができる。』」


 奏は遠い国の言葉を聞かされているみたいに呆けている。


「……『お父さんは天国へは行けないと思うけど、奏のことをずっと愛している』」


 成美さんが泣き出す。目が壊れた水栓のようになっていた。


「自ら命を絶った人間は、ドナーにはなれないんです。そういう決まりになっているんです。だから、だから……」


 「夫は恐らく、事故を装おうとして」と言おうとした時には、彼女の喉からは潰れたような音しか出なくなっていた。それでも声を絞り出す。


「あの時、あなたたちはまだ子どもだった。口を塞ぐことのできない子どもだった」


 だから、奏のお母さんは葬式の後、僕の父に丁重に謝り、そして懇願した。十分に時が経つまで、あの事故について多くを語らないようにと。


「なにより、夫が自殺しようとしていたなんて、この子にはとても言い出せなくて」


 成美さんは絵の具のチューブが散らばった床にうずくまり、わんわん泣きながらそう説明した。


「夫は良くも悪くも、芸術家らしい人でした。必要以上に思いつめることあって、前々から、自死について漏らしていたんです。それなのに、あなたたちは一つも悪くないのに。お葬式で、帰ってほしいだなんて……、あなたたちのせいだなんて言ってしまって、本当にごめんなさい」


 奏は母親である成美さんの泣き顔を黙って眺めている。


 人には目撃しないほうがいい事柄がいくつかある。その最たるものが親の泣き顔だ。目にすれば一生忘れることができなくなってしまう。


 僕も、今日見てしまった親の泣き顔を忘れないだろう。ギャラリーからの帰り、父も車の運転席で肩を震わせていた。早く出庫しなければまたパーキングのロック板が上がってしまう。頭の片隅でそんな心配をしていた。

 ハンドルを握りしめ、むせび泣きながら父は語った。

 今年で久保誠一郎の娘も二十歳。この年になってようやく、久保の個展の開催を成美さんが受け入れてくれた。


――おまえも罪悪感を持っていただなんて……。もっと、もっと早く真実を言ってやれば。ちゃんと話しておけば。


 医者なのに救えなかった命を想うと眠れなくなってしまうらしい。父もまた、あの事故に心を苦しめる一人だった。


――おまえのことを大事にする方法もわからなくて、だめな父親で、本当に悪かった。

 



「私、天使なんかじゃないのに」


 奏がぽろりとこぼす。


「ろくに色を認識できない、出来損ないたちの一人なんだよ。私は」


 彼女の目線はシャボン玉を吹く自分の顔に落とされている。


「愛してほしかったな。ピアノが下手な私を。お父さんと同じ光を感じられない私を。ただ、愛してほしかった。ただ、隣に……出来損ないの私の隣にいてほしかった」

「きみのお父さんは、天使の絵を描くのをやめるって言っていたんだ」


 事故に遭う直前、久保は確かにそう言った。


 口だけでなく、実際にこの部屋には白い絵が遺されていて、それらには翼は描かれていない。

 ギャラリーに置かれていた絵だってそうだ。

 娘に向けたメッセージを隠しておいた場所だって、翼のない、ただにこにことシャボン玉を吹く奏が描かれていた。


 どうして気付かなかったのだろうか、絵の中の奏の目には、人の顔が映っていた。娘に優しいまなざしを向ける久保誠一郎だった。


「きみのお父さんは、天使ではないきみのことを、愛そうとしたんだよ」


 伝わらなかった愛情は、愛情とは呼んでもらえないのだろうか。

 星の赤ん坊のように、誰かに観測されるのを待つ愛情が、ありとあらゆる場所に漂っているのかもしれない。


 奏は顔を手で覆い、背中を丸くさせる。僕は彼女の肩甲骨のあたりに手を置いた。探してみたけれど、やはり天使の翼なんてどこにも見当たらない。翼の無い彼女のことを、僕も、天使のようだと思えた。


 日が傾いて部屋の中も翳る。

 そうなると僕の目でも、久保の遺した文字は見えなくなってしまうのだった。

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