終章 名のない光が結ばれる

名のない光が結ばれる


 手擦れた「生物 一問一答」とすっかり馴染んだ眼鏡が三月の風に煽られた。


「お待たせ」


 駅の構内から出てきたかなでが僕を見つけて駆けてくる。

 紺色のトレンチコートの裾がはためいた。髪はおめでたい式の参列者らしくきっちりと結い上げられているから、少しも乱れない。

 彼女がよろけたので肩を支えた。


「慣れない靴だから」


 照れたように笑う彼女の手には、ブーケトスで獲得したという白いチューリップの花束があった。瑞々しい葉は水色と紫の光沢を持っている。


 僕たちは駅のデッキを下り、セントラルに向かって歩き始めた。


「ふつうの式だったな。ケーキ入刀して、ブーケトスして、新婦が両親に手紙を読んで。本っ当にありきたりな式だった」

「ふつうが一番だよ」


 ぼやく彼女を僕は宥めた。


「一応アーティスト同士なんだから、もっと奇抜なことやってほしかった」


 僕は今日の主役であった二人の写真を見せてもらった。新郎はタキシードをモデルのように着こなし、新婦はドレスの下のお腹をぽこっと膨らませている。

 初夏には人の子の親となる二人は、この上ないほど幸せそうに笑っていた。昔の出来事をいちいち思い出している暇は無さそうだ。


「あー、腹が立つ。でも、見てよ」


 そう言うと彼女は僕にブーケを押し付けて立ち止まる。


「じゃーん」


 空いた両手でボタンを開け、露出狂のごとくコートの中を見せてきた。

 こんなところで裸を拝めるのかと思ったが、彼女はきちんとした白いワンピースを身に着けている。裾がタイトで歩きにくそうだが、風で捲れる心配のないデザインだ。


「この花束よりきれいだよ」


 歯の浮くような台詞を言ってみたのだが、彼女の表情から察するに不正解だったようだ。


「俊介くん、結婚式には白い服を着てきちゃいけないって知らないの?」


 半信半疑になりながらスマホを取り出し、「結婚式 白い服」と検索する。どうやら、本当にタブーとなっているようだ。禁忌中の禁忌だと訴えるページまで見つけた。純白のウェディングドレスを着て登場する新婦への配慮らしい。

 それを知りながらの奏の今日の服装だ。


「嫌がらせしたつもりだったのに、全然わかってもらえなかった」


 幸せ過ぎて嫌がらせに気付かなかった、ということらしい。


「俊介くんは、美大受験、やめちゃったんだって?」


 戦利品のチューリップを受け取りながら彼女は訊く。

 受験した青美も藝大も、見事に不合格となった。補欠合格ですらなかった。進学先も就職先も無いまま高校を卒業した僕は、潔く菅美をやめる決意をした。


 奏は「これからどうするの」と言って歩き出し、パンプスのつま先で小石を蹴る。


「誰からも期待されない、ふつうの人生を歩むんだ」


 僕は笑ってみせた。


「ふつうが一番だよ」


 彼女も笑う。


 セントラルが見えてくる。小川に架かる短い橋の上でまた足を止めた。


 橋の下の土手に沿って桜の木々が植えられている。枝にたくさんの蕾をつけていた。これから何色の花を咲かせるか、きっと誰もが言い当てることができる。本格的な春を待たずとも。


 彼女はチューリップの花を一枚つまんで引っ張った。雄蕊ごと花弁がもげる。


 保育園児の時、みんなで色水を作って遊んだ日があった。ポリ袋の中に水を溜め、中に花弁を入れる。園の花壇で散った、赤いチューリップの花だ。入れたら袋の口を縛ってよく揉む。時間を置くと、イチゴジュースの出来上がり。

 僕はこっそり、黄色いチューリップの花びらを袋の中に混ぜた。だから、僕の色水は他の友達の色水より黄みがかっていた。イチゴとバナナの、僕だけの特製ミックスジュースだ。

 でも先生は、「赤くてきれいだね」と笑っただけだった。


 奏の横顔を見つめる。眼鏡のレンズの下には澄んだ目があった。


――このことだけは、墓場まで持っていくつもりなのですが。


 成美さんが、僕にのみ耳打ちしたことがあった。


――夫が亡くなる前に、電話があったんです。


 久保誠一郎が事故に遭う数時間前に、病院から彼女に連絡が入った。

 角膜の提供者が見つかったという知らせだった。成美さんは即刻、娘の移植手術を申し込んだ。


 事故現場で父がしきりに「目は大丈夫」と言っていたのは、息絶え絶えの久保に訊かれたからだった。「目はどうなっているか」と。


 父は彼を励ますために「大丈夫」と嘘をついた。実際には誰がどう見ても大丈夫なんかじゃなかった。頭部と眼球に損傷を負った久保は搬送中に息を引き取った。

 移植手術の前、成美さんは娘を励ますために、「お父さんの目を貰うんだよ」と嘘をついた。



 僕のこの目で誰かと誰かの角膜を見比べたら、色の違いがわかのるだろうか。

 僕は、ヒトの目の中をのぞいてみたいと思うようになった。それから、光を失いかけている誰かの手助けをできればいいと思っている。


 誰かに頼まれたわけではない。褒められたいとも思わない。


 父に進路の変更を告げたら、「頑張れよ」とのことだった。「頑張ります」と僕は答えた。

 

「――きれいだね」


 奏がチューリップの花びらから細い指を離した。薄い花弁は風に吹かれ、橋の欄干をするりと飛び越えていく。



 花びらは日差しを透かし、ただの白い光となって春の空を舞った。 





「名のない光が結ばれる」   了                                        

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名のない光が結ばれる ばやし せいず @bayashiseizu

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