3-10 真実

 成美さんの質問を、かなでは否定しない。


「奏さんは僕の大切な人なんです」


 僕が答えると、奏は「何言ってるの?」と声を荒らげ家からとび出てきた。蚊の大群に集中攻撃されたのではないかと思うほど瞼が膨れ上がっている。


「お母さんっ、お父さんが死んだのはね……!」

「奏さんと成美さんにお話したいことがあるんです」


 僕は成美さんの目をまっすぐに見据えて言った。彼女は一度目を伏せ、意を決したようにまた顔を上げる。


「家に上がってください」

「ちょっと!」


 成美さんは僕の腕を引き、興奮する奏を押しのけて中に入る。


「私の話を聞いてよ!」

「あなたももうすぐ二十歳でしょう」


 成美さんはパンプスを雑に脱いで框に上がった。そして裁きを下すように、自分の娘を真っ直ぐに見下ろす。


「言わなければならない日も近いって、覚悟していた。……まさか、今日だとは思っていなかったけれど」

「何を……?」


 奏は呆然と立ち尽くしていた。廊下の蛍光灯がじいじいと音を立てる。

 靴箱の上の花瓶が目に留まる。花弁を散らしたひまわりが生けられていた。真綿のようなカビが茎を覆っている。


「さあ、入ってください」

「すみません。僕は、知ってしまいました。今日、父から全て聞かされました」


 家に上がる前に僕は白状した。

 今日、帰りの車の中で、父は全てを僕に語ってしまった。後に成美さんから口止めされていた真実を一つ残らず。


 約束を守れない父は人として弱い。しかし僕も、父を非難できるほど強い人間ではなかった。


 成美さんは「そう」と、一言だけ呟いた。

 父と僕を許すように。


「だから、何を?」


 三和土に仁王立ちしている奏が僕たちを交互に睨む。睨んだのではなく、泣きすぎてまともに目が開けられなくなっているのかもしれない。


「とにかく座りましょう。こんなところでする話ではないわ」

「私は話なんてしたくない」

「悪いけど、私はしなくちゃならないのよ。この方に謝らなければならないの」

「謝るって? 謝られるほうじゃない、私たちは!」


 彼女は足を強く踏み鳴らした。


「違うわよ」


 埒が開かないとばかりにため息をつき、成美さんが奥へ消えようとする。癇癪を起こす二歳児に手を焼く親の最終手段のようだった。


「あの、真実は奏さんのお父さんが……、久保誠一郎さん本人が伝えてくれると思うんです」

「……どういうこと?」


 ダイニングへ続くドアを開けようとした成美さんが振り返った。


「二階へ上がらせてください」


 僕は話し合いの場所に打って付けのダイニングではなく、奏の部屋がある方向を指差した。




 部屋の中は、以前訪れた時よりもかなり散らかった印象だった。

 下着まじりの洗濯物の山があって、母親である成美さんがクローゼットに放り込み始める。既に肌を許し合った関係だから気にしなくてもいいですとは、口が裂けても言えない。


 僕はシーツの整えられていないベッドの傍らに立ち、ヘッドボードに手をついて自分の体を支えた。壁にかけられた絵を間近で凝視する。


「どうして絵なんて眺めてるの」


 ふてくされた奏がベッドに腰かけ尋ねてくる。きちんと答えるほどの余裕は無かった。


 絵にはシャボン玉を吹く奏が描かれている。何度見ても素晴らしい描写力だ。僕には到達できそうにない。


 僕が見つけた天使は、この絵を指差していた。

 僕は確信していた。久保誠一郎はここに何かを隠している。誰かに見つけてもらう日を待っているはずだ。


 僕はカンヴァスの布地の目を一つ一つを確かめていくような気持ちでいた。しかし何も見つけることができない。


「ねえ、何してんのよ」


 奏から戸惑いと苛立ちをぶつけられ、額に汗が浮かぶ。


 ふと、菅美の講師からのアドバイスを思い出す。なるべくカンヴァスから離れ、遠くを見るように。

 久保の点描の絵を鑑賞する時もそうだ。離れれば絵の中に大切なものが浮かび上がる。


 僕は素直になって絵から離れた。

 そうするとあっけなく、「何か」は見つけられた。

 真四角のカンヴァスに、妙な跡ついているのだ。小さな板のようなものが裏側からカンヴァスを押し、布地をたるませてしまっている。


「手伝ってもらえますか?」


 成美さんは嫁入り前の娘の洗濯物の片付けを中止し、ベッドの反対側に回ってカンヴァスに手をかけた。


「お父さんの絵に何するの」


 僕も成美さんも奏に返事しなかった。僕たち二人は、阿吽の呼吸で巨大なカンヴァスを持ち上げた。何度も練習を重ねたギャラリーのスタッフみたいだった。


 自動販売機からペットボトルが落ちた時のような音がする。絵の裏側に隠されていた小さなカンヴァスが落下してヘッドボードに当たったのだ。

 シャボン玉を吹く奏の絵を一度床に寝かせる。


「お父さんの絵だ……」


 奏がベッドの上の白いカンヴァスを拾った。


「絵じゃない。文字が書いてある」


 三人で画面をのぞき込む。


「読めますか」


 成美さんに訊かれ、僕は頷く。

 目を凝らし、薄い色の文字をなぞっていく。細い筆を使って丁寧に書かれた字だった。遊具の落書きとは似ても似つかない。


「奏さんに向けた手紙です。書かれた日付も書いてある」


 僕は一番下の数字の羅列を読み上げた。

 成美さんは目を閉じる。


「移植手術を受けるために、奏がアイバンクに登録した頃です」


 目じりの皺に涙が滲んでいる。


「読んでもらってもいいでしょうか」


 僕は成美さんと奏を見比べた。


「いいんでしょうか。……その、成美さんが、僕と奏さんに隠していたことが書いてありますが」

「お願いします」


 目を閉じたまま彼女はかぶりをふる。


「この子が二十歳になった時には、どのみち言おうと思っていましたから。……伝えるのが遅すぎたくらいです」


 僕は奏の熱を帯びた手を握る。彼女は反応しなかったが、抵抗もしなかった。


「読むけど、必ず心に留めておいて欲しい。ここに描かれている一番大切な言葉は、『愛してる』だってこと」


 言い聞かせると、彼女は僕に目配せする。


「『奏へ』」


 自分の声が震えていた。

 しかし、読み終わるまでは絶対に涙を流さないようにしようと心に決めていた。



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