2-10 人の目には見えない
「私、俊介くんのことが好き」
「……特別な目だから?」
いっそのこと、泣きたいような気持ちで訊いた。
きみのお父さんと同じ目を持っているから?
だから、「好き」だなんて言うの?
無邪気に「そうだよ」答える彼女を想像する。
「すごく地味な能力なのに」
他人より多くの色が見えたとしても、絵を描くことくらいにしか生かせないのに。
世界から戦争を無くせるわけではないし、荒れた大地に木を生やすこともできない。病気を治したり、死んだ人を生き返らせたりするなんて、絶対に無理だ。
通っていた保育園の庭には青い滑り台があった。ペンキを塗り直す前は赤だったことを言い当て、ベテランの保育士たちを驚かせた。それなのに滑り台を逆から上ってはいけないというルールを理解しておらず、上から転がり落ちて頭を打った。
固く閉じたつぼみが、春に何色の花を咲かせるのか言い当てるのは朝飯前だ。しかし、目の前にいる人が胸の内にどのような想いを秘めているか、読み取ることは難しい。
僕に至ってはまだ絵も全然上手く描けない。これでは宝の持ち腐れだ。
「目なんてどうでもいいの。どれほど多くの色が認識できるかなんて、本当は興味が無いの」
お父さんから貰ったという目には薄く透明な膜が張っていた。
「初めて会った日のことを覚えてる? 俊介くんはセントラルの前で私の絵を守ろうとしてくれたよね? 出来損ないの私の分身のことを気にかけてくれたよね? だから、私は、あなたのことが大好き」
名前を呼ぶ前に、彼女の唇が僕の唇を塞いでしまう。
僕たちはベッドに寝ころんだ。頭の中に男性の顔がちらつく。五十嵐だ。ノイズを消すみたいに奏はキスしてくる。何度も。
あとはされるがまま。
僕からするべきことは、ほとんど無かった。
*
「眠れない夜には、お父さんがプラネタリウムごっこをしてくれたんだ。『みなさま、本日はご来館ありがとうございます』から始めて、今夜の星空の様子を解説するの。そろそろ夏の大三角が見頃かな」
海から浜に上がった時のように疲れていた。それなのになかなか眠気がやってこない。体が波で揺らされているような感覚がある。
「お父さんと仲が良かったんだね」
「そうなのかな……。私はお父さんのこと好きだったけど、お父さんはそうでもなかったかも」
「どうして」
「お父さん、自分にも他人にも厳しいところがあったから。私の絵を褒めてくれたことは一度も無かった」
照明を落とした部屋には黄緑の星が無数に浮かんでいた。ヒトデと同じ形の、リアリティの無い星だ。
雑貨屋で購入した蓄光シールをお父さんが壁にペタペタと張り付けたのだという。夜空を円く切り取った窓からは本物の光が見えない。
「両親の初デート先はプラネタリウムで、もし女の子が生まれたら『星』の『子』って書いて、『星子』っていう名前にしたかったんだって」
「古風だけど良い名前だね」
ジャイアンやジャイ子という名前であったとしても、僕は同じリアクションをしていただろうけれど。
つまり、彼女を知るうえで名前なんて取るに足りない要素なのだ。姓名判断だって信じていない。
「でも、私より先に生まれた親戚の名前に『星』が使われちゃったから、結局この名前になったんだ。音楽の才能なんて無かったのに、お母さんが付けちゃったの。お父さんは気が弱くて、お母さんの尻に敷かれていたから、反対できなかったみたい」
僕たちは生まれた時の姿のまま布団を被り、そして僕たちを創造した親の話をしていた。
掛け布団が一枚しか無いために右足が出てしまっていて少し寒い。
「俊介くんは、電波望遠鏡って知ってる?」
「普通の望遠鏡とは違うの?」
実家にもおもちゃのような安物の望遠鏡が一つある。和室の押し入れで眠っているはずだ。扱いが難しくて、家族全員がすぐにあきてしまった。
「ケーブルテレビを観るためのアンテナってあるでしょ? 中華鍋みたいなやつ。あれの、もっと大きいのが付いた望遠鏡のこと。星の赤ちゃんを探せるんだって」
「すごく遠くまで見ることができるんだね」
へその緒にぶら下がり宇宙空間を漂う胎児を想像した。なんだか気持ち悪い。
「距離の問題だけではなくて、星の赤ちゃんたちはそもそも人の目には見えないんだ」
「とても小さいから?」
「ううん。星の赤ちゃんたちは電波だから。電波は人の目には見えないでしょ? 人が見ることができない光を電波望遠鏡が探してくれているの。日本の高原や、チリの砂漠でね。そこで望遠鏡たちが捉えてくれた電波に無理やり、人間がわかりやすく色を付けているの」
まるで受験絵画をする僕たちのようだ。
感想を述べると、彼女は満足したように微笑む。「飲み込みが早い」と思ってくれたに違いない。
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