2-9 鈍痛
「たくさんの色が見えるようになったのは、中学生の時、お父さんの目を貰ったからなの。それまでの私は、凡人だった」
レンズ越しではない彼女の瞳に、僕の姿はどう映っているのだろう。
そういえば、担任から「眼鏡を作れ」と言われていたのに、まだ眼科にすら行っていない。どうでもいいことを思い出す僕の頬に、彼女の冷たい手が触れる。
「中学生の時、目の病気になっちゃったの。私自身もショックだったし、お母さんも自分が厳しくしたせいかもって思い込んで、かなり落ち込んでた。お父さんだけは今まで通りに見えた。お父さんは感情を表に出す人じゃなかったから。私の病気はあまりにも進行が早くて、このままでは何も見えなくなると言われていた。移植手術をすることが決まったんだけど、移植を待っている間に私の角膜は光を通さなくなったの。それで、運良くなのか、運悪くなのか、お父さんが死んでしまった。才能の無い私じゃなくて、絵が上手くて、たくさんの色が見えるお父さんが死んだの」
彼女はほとんど息継ぎせずに喋った。
「死んだ次の日に、私はお父さんから角膜をもらって移植手術を受けることができた。お父さんが生前に、親族優先提供の書類を書いてくれていたから」
大型の車が走ってくる音が聞こえた。家が少し揺れる。震度二くらい。
タイヤが擦ったコンクリートは恐らく濡れている。予想通り雨が降り始めたのだろう。
「手術が終わって、数日間の痛みに耐えて、また私の目が光を通すようになった時、全くの別世界が映っていた。お父さんや俊介くんのように、色鮮やかな世界が。……その世界にはもう、私のお父さんはいなかったけどね」
お葬式にも出られなかったと言って彼女は目を伏せた。以前、彼女は僕の家で「お葬式なんて意味が無い」と言って拗ねていた。
「だから、私のこの色覚は遺伝ではないの。絵が上手くなったのも、私が一生懸命努力したからだよ。お父さんの目を貰ったんだもん。無駄にができないよね」
僕はもう一度謝った。別に、と言って彼女は掛け布団の上に寝転ぶ。
「でも、せっかく努力して美大に入ったのに、自由過ぎて何がしたいのかよくわからなくなっちゃったよ。本当に好き勝手な作品を作っても、わかってくれる人はいない。結局、認められたかったら他人に合わせる必要があるんだよね。教授たちは自由にやっていいんだよって言うけど、そんなの大嘘」
「スランプってやつかな」
「そうかも。入学早々、ど壷にはまっている感じ。わかりやすいでしょ、私。いらいらしてごめんね」
「何を表現するのか探るために大学に入ったんじゃないの? これからいくらでも上手いやり方を見つけられるんじゃないかな」
「そうだね」
「偉そうだよね。僕はまだ美大生にもなっていないのに」
「ううん。俊介くんの言う通りだよ。そのために美大に入った。わかりきっていることなのに。……私はただ、俊介くんに話を聞いてほしかっただけなのかも」
彼女は起き上がると再び僕に顔を寄せた。柔らかい唇が僕の唇に押し付けられる。
味オンチの僕でもわかるほど、人工的で強いミントのにおいがした。しかしここに来る前、彼女は僕が注文したのと同じカツサンドを美味しそうに頬張っていたはずだ。
「嫌だった?」
彼女は悪戯っぽく笑う。相手が嫌がっているかもしれないなんて微塵にも想像していない時の顔だった。他人にちょっかいを出した後の小学生が同じ表情をする。
僕は笑い返すことも、首を振ることもできず、ただ見返した。
僕の様子に彼女は慌ててしまう。
「え、本当に嫌だったの? ごめんね。まさか初めてじゃないよね?」
「違う」
嫌ではなかった。でも初めてのキスだった。
「奏に訊きたいことがある」
「いつの間に歯磨きしたのかって?」
「きみの気持ちが知りたい。……きみはどうして、藝大ではなくて青美に入ったの?」
「どうしてって、合格しなかったら入学できないでしょ?」
「……五十嵐先生の後を追いかけたんじゃなくて?」
授業中に漫画を読んでいたことが見つかった時のように彼女は目を丸くしたが、落ち着き払って「なるほど」と呟く。
「知ってるんだね。菅美の浪人生たちが言ってたの?」
彼女は僕の問いを否定せず、代わりに名推理をしてみせた。
僕たちが初めて出会ったのは真冬の日だった。心と体の隙間にその時の風が吹き込んで、進行した虫歯のような鈍痛をもたらす。
「結論から言うと、もう何も無い。連絡先すら消した。……先生は、結婚するかもしれないんだって。それを承知で私のほうから好きになった。相手は全然、本気じゃなかった。もう全部終わったことだよ。……青美はね」
彼女は自分の笑顔が描かれた絵を見上げる。
「お父さんの出身校でもあるの。助手として働いていたこともある。だから、私は青美でよかったの。ただそれだけ。五十嵐先生は関係無いの」
彼女は僕を抱きしめる。
鈍い痛みが少し和らぐ。
「私、俊介くんのことが好き」
泣きわめく子どもを落ち着かせる時のような声で、彼女は囁いた。
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