2-8 秘密

「随分丁寧に淹れてくれたんだね」


 かなでは僕の言葉に、「まあね」と笑ってみせるだけだ。

 彼女は僕によく冷えた麦茶のグラスを渡すと、部屋の隅に重ねて置かれていた小さなカンヴァスを床に並べ始める。全部で六枚あり、それぞれの大きさは受験で課されるサイズの半分ほどだ。


「習作なんだけど、お母さんにはただの白いカンヴァスにしか見えないって。……つまり、大成功ってこと」


 許可を貰って、お店屋さんごっこの小道具のように陳列された小作品たちを手に取った。

 遠目から見れば確かに白いカンヴァスにしか見えないだろう。しかし、目を凝らすと絵の具の厚みが作られていることがわかる。

 下地と絵の具の相乗効果なのか、じっと見ていると画面から人の姿が浮かび上がった。

 純真無垢な子どものようにも、花も実もある大人の女性のようにも見える。すっと消えてしまいそうなほど淡く描かれているのに、確かに肉付いた存在がカンヴァスの上にあった。


「描いたのは、天使なの」


 彼女は安楽椅子にゆったりと座る。モデルがポーズをとるように。


「今までは受験のために一般受けする絵を描いてきたけど、今後はわかる人にしかわからない絵を描きたいって思ってるの」


 真面目な顔で彼女は語る。


「良い絵だと思う」


 見せてもらった絵を並べ直し僕もベッドに座り直す。


「天使の翼はこれから描くの?」


 彼女の絵から目が離せなかった。似たような高揚感を前にも一度味わったことがある。憧れの画家、久保誠一郎と絵について語り合った時だ。


「それとも描写しないで、それぞれの鑑賞者の心に思い浮かべてもらうってことかな」


 質問した直後、僕は不安に駆られ、顔を上げて彼女の表情を確認した。

 天使を掻いたと彼女は言ったが、翼は描かれていない。描かれていないように見える。


 僕の目に映っていないだけだとしたら。

 僕の色覚では翼が認識できないのだとしたら。


 彼女は瞬きを繰り返すと、僕の心配をよそに「描こうか描かないか迷ってる」と曖昧に笑う。

 内心でほっと息をついた。盆の上の麦茶にまた手を伸ばして飲み干す。僕と彼女で、見えている世界が違ったらどうしようかと気が気ではなかった。


 彼女が見せてくれた「わかる人にしかわからない絵」のトリックは単純だった。

ベースとなる白い絵の具に少しだけ他の色を混ぜ、凡人にはわからないほどの薄い色彩を作る。同じ色を塗ったとしても、下地の種類を変えることにより、目に映る色は変わってくる。

 「ばーか」や「あけおめ」という馬鹿馬鹿しい落書きも同じやり方だそうだ。特別な材料や技法は使っていない。講師にばれるかもしれないというスリルを味わいながら書くか怖気づいて書かないか。ただそれだけ。


「でも、私の絵を理解してくれる人はなかなか現れない。美大に入ったらもしかしたらって思ったけど、出会えなかった」

「奏をいらつかせている理由はそれ?」

「いらつくっていうか、……不安になる、かな。なんか、……孤独?」

「みんな、きみの本当の才能に気付けばいいのにね」


――出来損ないに合わせてあげるんだよ、俊介くん。


 僕はやっとトウモロコシの粒を歯で砕き、飲み込んだ。両親が耳元で「そんなもんだ」と囁いた気がした。


「この子も天使?」


 シャボン玉を吹く女の子を指した。


「この絵は大学に入学してから描いたの?」

「まさか。私はこんなに上手く描けない」


 彼女はあり得ないというふうに笑って首を振った。


「それは私じゃなくて、私のお父さんが描いた。父も絵を描く人だったから。上手でしょ」

「へえ」

 僕は目を丸くした。

「音楽性より、色覚のほうが遺伝したんだ」

「してないよ。生まれつきじゃないよ、この能力は」


 彼女ははっきりと、そして非難がましく言う。

 確かに、まるで彼女が努力をしてこなかったかのような発言だった。


「ごめん」


 機嫌を損ねたかと思ったが、彼女は微笑み、椅子から立ち上がって僕の隣に座る。

 ベッドフレームが軋んだ。彼女は麦茶の入っていたコップ僕からを取り上げ、ナイトテーブルの上に置いてしまった。水滴が指を伝っていく。


「私の目はね、お父さんの目なんだ」


 世界の秘密を暴く時の声で、彼女は耳打ちする。

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