2-7 地獄の一丁目
大学から駅へと向かうバスの車内はがら空きだった。
駅前で一度降りて、また乗り換える。バスは市街地を通り過ぎていく。車窓から曇天を見上げ、折り畳み傘を持ってきた自分を褒めた
僕と奏は大通りで下車した。アトリエを出てからここへ来るまでに一時間は経っていたが、まだ彼女の家にたどり着かないという。
通り沿いにハンバーガーショップがあったので二人で入った。昼食をとっていなかったという彼女は美味しそうにカツサンドのセットを平らげた。
カツサンドとポテトとコーラで重くなった胃をさすりながら店を出て坂道を上る。高度が上がる毎に商店も住宅も減り、代わりに雑木林が多くなってきて、ようやく目的地に着いた。
「誰もが羨む、都内の一戸建てだよ」
指で示されたのは、くすんだ水色の壁の家だ。バブルの時に建てられた家だから古くて恥ずかしいと、来る途中で彼女が前置きしていた。
確かに経年劣化している様子は否めない。けれど、三角屋根の付いた家はカントリー風というのか、レトロで趣がある。野菜の苗が育つ庭も僕にとっては珍しい。恥ずかしがる必要は無いと思えた。壁には端の錆びた看板が貼られていて、「小池成美ピアノスクール・生徒様随時募集中」と書いてある。
「蚊に刺されるよ。早く入って」
家の中の壁はキャラメル色だった。五十嵐の煙草とはまた違う、甘くて苦い匂いがする。そこに薬のようなつんとしたにおいが混ざっていた。田舎にある祖父母の家を思い出させる。
「ここは?」
玄関の左手にはドアがあった。そのグレーのドアだけがピカピカと輝き、この家に馴染めていない。初来訪した僕はそのドアに親近感を持った。
「ここは、地獄の一丁目と繋がってる」
彼女は地獄への入り口を躊躇いも無く開けてしまう。ドアの向こう側には、坂が続いているわけでも業火が広がっているわけでもなく、一台の美しいグランドピアノが鎮座しているだけだった。
「音符を少しでも間違えると閻魔大王に怒られるの。泣いたって出してもらえないんだから」
ピアノの脇に置かれた低い棚には写真がずらりと飾られている。
被写体は全て、ピアノの前に立たされた女の子だった。まだろくに「さしすせそ」を発音できないであろう幼女から高校生くらいの背丈の少女までが年齢順に並べられている。
どれも小池奏の姿だった。
女の子であれば誰もが一度は夢見そうなフリフリのドレスを着ているというのに、笑顔の写真は一枚も見当たらない。スタンプを押したように、それぞれの口が全て「へ」の字に曲がっている。無理やり服を着させられて、無理やりピアノの前に連れてこられたことが、写真からありありと伝わってきた。
「眼鏡をかけ始めたのはこの時期から?」
中学生くらいの彼女が映る写真を指す。これ以前に撮影したと思われる写真には裸眼で映っていた。
「さらに不機嫌そうになってるでしょ。写真を撮ってる閻魔大王は悪魔みたいな顔してた」
「悪魔のような閻魔大王って、つっこみがいのあるキャラ設定だね」
一曲弾いてほしいと頼んでみたが、演奏料を請求されたのであきらめた。
「曲なんてどうでもいい。私の絵を見ていってよ。俊介くん、私の受験絵画しか見たことないでしょ」
主が不在の地獄から無事に生還し、僕は二階の部屋へ案内された。青美の絵画棟と同じにおいがする。床には油絵の道具が散乱していた。
昔は両親が使っていた寝室だったが、今は彼女の個室兼アトリエになっているらしい。僕の実家のリビング程の広さだ。
斜めになった天井には木材の梁がかけられている。満月のような円い窓があった。外側から十字の格子が取り付けてある。
内装にもこだわりとセンスを感じられる家だった。マンションという味気ない建物に住んでいるのが嫌になってくる。
彼女は「麦茶を取りに行く」と言って僕を残し、また一階に降りて行った。
部屋の隅には安楽椅子があったがとても古く、小池家の歴史を感じさせる代物だったので腰掛けるのは遠慮した。
円い窓の正面にあるベッドに座る。詰めれば三人は寝られそうな大きなベッドだ。ヘッドボートが壁にくっつけられている。その上には大きな絵画がかけられていた。地震が起きたら頭上に落ちてくるのではないだろうかと心配になる。
描かれているのは、シャボン玉を吹く幼い奏の顔だった。小学校に入る前くらいの年齢だろうか。
一階のピアノの傍らに飾られていた写真とは異なり、とびきりの笑顔を見せている。写実的で、髪の毛一本いっぽんに触れられそうなほど緻密な絵だ。子どもの厚みの無い肌やシャボン玉には、僕の目に映るのと同じ色数が使われている。
いつ描いた絵なのだろう。
鑑賞を始めて十分経った頃、彼女は盆に麦茶のボトルとコップを二つ載せて、ようやく戻ってきた。
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