2-18 きみには天使が見える?

「今の彼氏くんの前でも同じことやってるんだね? 何か楽しいの、それ? 詐欺みたいじゃない」


 声の主は、サプライズの主役となる予定の人物だった。


「ごめーん。泣かせるつもりはなかったんだって」


 いつの間にか僕の席に、つまりかなでの隣に座る七五三木しめぎさんは心底楽しそうだった。店の雰囲気とアルコールが彼女をより開放的にさせているようだ。手にしているグラスの中の液体の色はさっきよりも濃い。


 一方で奏の後ろ姿は、先生にしつこく怒られている児童のように縮こまっている。僕は誰かが怒られている姿を見るのが苦手だ。自分に関係の無い事柄だったとしても。

 自分が被害者という立ち位置だったら、なおさら居心地が悪い。


「私もさあ、本当に気持ち悪いよね」


 ふうと息を吐いてから七五三木さんがグラスに口を付ける。ステーキの皿は既にテーブルから下げられていた。


「でも、考えちゃうんだよね、毎回毎回。やってる時に、五十嵐がうっかりあんたの名前を呼んじゃったらどうしようって。そうなったらめちゃくちゃ気まずいなって。……ねえ、どうしたらいい? ずっと考えちゃうんだよ。ベッドの上でさ……。あ、ベッドじゃない時もあるんだけど」


 他のテーブルから、爆弾みたいな笑い声が弾けた。でもきっと、品を欠いた七五三木さんの台詞に反応したわけではない。

 彼女は薄ら笑いを浮かべながらワインを飲み干す。


「どうしたら、式までにあんたのことをきれいさっぱり忘れられるかな? 私も、五十嵐も」


 彼女が天井を仰いだその隙に、奏が手早く自分の目元を拭う。


「酔った。先に帰るわ。彼氏くんによろしく。……落ち込んだからって、もう屋上で黄昏れて通報沙汰になるのだけはやめてよね。五十嵐も言ってたよ。『あのメンヘラ、めちゃくちゃ迷惑だった』って」


 一枚の紙幣をテーブルに置き、バッグを手にすると七五三木さんは立ち上がった。


 こっちへ歩いてきて、棒立ちの僕にやっと気が付く。彼女は少し目を見開いたが、口元の笑みは絶やさない。頬は赤く染まり、見るからに酔っ払っていたが、瞳の奥には恒星のような光を宿している。

 目の中の星をのぞきこみながら、この人は婚約者のことを苗字で呼ぶのだな、と思った。


「『天使が特徴的』なんだってさ。あの絵は」


 彼女は首だけで振り返り目線を送る。たった今泣かせた相手ではなく、壁に飾られている小さな絵に。


「知ってる? 久保誠一郎ってさ、ただの風景画を描いて売っていた時期があるの。ろくに色を認識できない、出来損ないたちには天使の絵は売れないって、調子乗ったこと言ってたみたいなんだよね。売れてたわけでもないのに」


 彼女は僕に向き直る。発酵した葡萄の匂いがきつい。あと数年で二十歳になるけれど、僕がお酒や煙草を嗜むようになるとは思えない。


「きみには天使が見える?」


 そう言い残して彼女は去っていく。店のドアが開閉した音が聞こえた。

 両手で顔を覆っている奏の横に座る。目の前には薄くなったジンジャエールのグラスがある。氷が溶けてしまったのだ。


「受け取って来たよ」


 頼まれていたものを差し出した。

 彼女は「ありがとう」と鼻声で呟く。下を向いたまま、今しがた贈る相手を失ったひまわりの花束を受け取る。


 それを合図に店内の照明が完全に落とされ、BGMも消えた。代わりにスピーカーからハッピーバースデーのメロディが流れる。蝋燭に照らされた店員の生首が近づいてきた。「どきどきしますね」と言っていた店員が、サプライズのケーキを持ってきたのだ。低予算のホラー映画のような光景だった。


「きららさん、お誕生日おめでとうございます!」


 奏の前にケーキの皿が置かれる。小さなホールケーキに刺さった蝋燭が、ぱちぱちと火花を散らしている。

 他の客たちからの拍手が沸いた。「おめでとう」と言ってくれる人までいる。

 しかし、祝われるべき相手は不在だ。この店の従業員に対する僕の評価が暴落する。

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