1-8 ラ、ブ、ホ、い、こ
それに対しイケメンは、「最初から上手い人なんていないよ」と返事した。
誰もが思いつくようなフレーズだ。
頭をひねらずとも言える。
けれど、その言葉は僕の頭にがつんと打撃をくらわせた。クリティカルヒットだった。
なぜなら小池
彼は手首の腕時計を光らせながら髪をかき上げている。その様子に心の中で舌打ちした。
毛が鬱陶しいなら坊主にしてしまえ。小池奏はそういう髪型が好きなのか?
彼女が目を細め、彼の前髪をいじる想像をする。
「最初から上手い人なんていないよ」
頬を染めて
「――
質問が気付け薬となり、妄想から現実に意識を戻す。必要以上にしゃんとして「まだ決めあぐねています」と答えた。
父親にはまだ、この予備校に通っていることを打ち明けていない。冬期講習は自宅から握りしめてきた現金で受け付けてもらえたが、通常の授業料は口座から引き落としとなる。父に明細を見られればさすがに隠し通すことは不可能だ。
どっちつかずの僕の反応に、五十嵐はたいして驚いた様子を見せなかった。
「一年はあっという間だから、どうするのかは早めに決めような」
現役での合格を願っているような口ぶりだ。以前は「何浪でもできる」なんて言っていたのに、一貫性が無い。書初めの半紙には「他人の発言にいちいち振り回されない」と書くことが決定した。
「でもさ、続けないと勿体ないよ。このまま頑張っていこう。せっかく絵を描くのが楽しくなってきたみたいだから」
事務机の上の自画像デッサンと作者である僕の顔を見比べ、彼は片目を
「よくなってきたじゃん」
このデッサンは我ながらなかなか良く描けたと思っていたし、講評でも成長を褒められた。
「頑張りますっ!」
僕は頭の中で、新年の抱負を早くも破り捨てた。
面談を終え、浮かれながら講師室を出る。ドアの前でぶるぶると震えていたのは奏。煙草臭い恋人に会いに来たのだろうかと思ったが、彼女は「岩井先生、いた?」と、訊いてきた。
「岩井先生って?」
「油絵科の先生。
苛立った様子の彼女が手にしていた静物画を目にし、「すごい」と月並みな感想を漏らす。立体的、色使いが良い、モチーフの林檎が美味しそう。油絵の知識がほとんど無いせいで、それ以上の言葉が見つからない。
僕はさりげなく、カルトンと呼ばれる板にとめた自分の自画像を裏返した。
「すごいでしょー?」
彼女は腰に手を当てる。
「私、油絵科の期待の星だから。私の描く絵描く絵が菅美の参考作品になるの。俊介くんもお手本にしていいからね」
「
「謙遜してもしなくても、
顔を少し上に向けてきっぱりと言い切る。自信に満ちた彼女の顔をつい見返した。
「めっちゃいいじゃん!!」
一階から歓声が上がる。浪人生の一人が階段を駆け上がってきた。
「先生たちが、ケンタ予約したって!」
浪人生は満面の笑みで報告すると、さらに階段を上っていく。上の階からもまた歓声が上がった。講師たちも予約した甲斐を感じていることだろう。
「忘年会っていうより、クリスマスみたいだね」
上の階を仰ぎながら奏が笑う。今夜、菅美のアトリエで忘年会が開かれることをすっかり失念していた。
「ところで、俊介くん」
彼女は僕のほうに向き直った。
「私はどこに、何を書いたでしょう?」
彼女は自分の油絵を持ち上げてみせる。ヒントは「左側」だそうだ。静物画の左半分にはガラス製の青い
「ラ、ブ、ホ、い、こ……」
一文字ずつ音読して、読み終えた時には頬が熱くなっていた。
顔を上げると、彼女は僕をのぞきこんでふにゃふにゃと笑っている。
「ベッドの無いラブホだよ」
完全に、他人をからかう時の笑い方だった。
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