2-14 二種類の細胞
入手した処方箋を手に自宅へと戻る。
リビングの棚から一冊の本を引っ張り出した。手を洗わずに家の中の物を触っている僕の姿を見たら、潔癖症の母はきっと発狂するだろう。
棚から出した生物の教科書は、あまり開かず大切に扱ってきたために、新品同様だ。
教科書によると、ヒトが色や明るさを感じることができるのは二種類の視細胞を持つためらしい。
「錐体細胞」と「桿体細胞」。
何となく聞き覚えがある。何となくだ。曖昧な記憶で、僕ははたしてどうやって生物のテストを乗り切ったのだろうか。
これら二種類の細胞は、眼の後ろのほうにあるらしい。「網膜」という組織の中だ。僕の地味な特殊能力の秘密はここに隠されているのかもしれない。ただ、今は自分自身についてはどうでもよかった。
教科書を置き、今度はスマホで移植手術について検索した。
眼科医が言っていた通りだった。国内外問わず、眼球手術に成功した例は無いようだ。現在の技術で実行可能なのは、角膜移植程度らしい。「角膜」は透明で、目に光を通すものの、色を感じるための細胞は持たない。
色を感じるための細胞は、持たない。
大正解だと知らせるように、家のインターホンが鳴る。
僕が事前に招いていた人物の顔がモニターに映し出された。エントランスの自動ドアを解錠する。
二度目のインターホンが鳴るまでに簡単に部屋を片付けた。今日初めて熱心に読み込んだ教科書も本棚の奥に戻す。親に見せられないような内容の漫画を隠すみたいに。
「で、何を見せてくれるんだって?」
慣れた様子でリビングに入ってきた奏を僕はきょとんと見返す。
彼女はよそいきのワンピースを着て髪を結い、丁寧な化粧も施していた。見惚れながら、彼女を我が家に呼んだ理由をやっと思い出す。
彼女の手を引いて再び廊下に出た。玄関とトイレの間にある部屋のドアの前に連れて行く。この部屋には誰も入れたことが無い。僕自身もしばらく入室していなかった。
パンドラの箱を開けるくらいの勇気がいるけれど、彼女には見てほしいものがある。だから、こうして家に招いた。
眼科医との会話を思い出し、手に汗が滲む。
「やっとプレイルームに招待してくれる気になったの?」
他人の気も知らないで、彼女はにやつく。
「そうだよ」
プレイルームがどのようなものか知らないまま頷き、ドアノブを回す。ふわりと埃が舞った。
北向きの窓が付いた部屋の中に一歩踏み入れ、彼女は表情を消した。
「素敵な絵だね」
壁一面を使って飾られた久保誠一郎の絵画に対し、彼女は短く感想を語る。
作品は二枚のカンヴァスを繋ぎ合わせた大きなもので、設置は父が業者に頼んだ。中等部に合格した時に父が贈ってくれたものだった。
絵の中には地平線まで続く草原と、壊れた教会らしきものが描かれている。もちろん、無数の点描で。これらの点を一つ一つ筆で打ったと思うと、鑑賞しているこちらのほうが気を遠くしそうだ。眺めていると、教会から抜け出そうとしている天使の姿が浮かぶ。他の家族にはやはり、この天使は見えないようだった。
特別な目を持っていなければ、見ることが不可能だからだ。
作者の横顔が思い出される。「こういう絵はもう終わりにする」と呟いた時の、久保誠一郎の思いつめたような顔だ。
こめかみに爪が刺さったような痛みが走る。僕は絵から目を逸らした。大好きな画家の絵なのに、これ以上はとても見ていられそうにない。
「本当に、素敵」
彼女は繰り返す。
発表会の練習をする幼稚園児のような、抑揚の無い声だった。
「でも、どうしてわざわざ私を呼んでまで見せようと思ったの? この前は、ここには入らないでって言っていたのに」
今日、眼科へ行こうが行くまいが、彼女にこの絵を見せるつもりだった。特定の宗教を信じていない僕に誓う神はいないけれど、本当のことだ。
「これは僕の好きな作家の絵なんだけど、好きだからこそ、見ていると色々と思うところがあって。でも、奏には見てほしかった。この前、きみの絵を見せてもらったよね。この人の絵に似ているところがあるなって思って」
彼女が表現方法に行き詰っているなら、この絵が参考になればいいと思った。全くの良心のつもりだった。
それなのに僕は今、彼女に絵踏みをさせる役人、もしくは犯人に証拠を突き出す刑事役の大物俳優にでもなったかのような気分でいる。
はたして、彼女の目には、久保誠一郎の描いた天使が映っているのだろうか。
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