2-13 ポップコーン一つ分

「『ばーか』の人だ」


 七五三木しめぎさんの軽自動車が坂道を下っていくのを見送りながら、やっと既視感の正体に気付く。

 霧が晴れたような気分になった。


「私の従姉妹に対してよくそんなことが言えるね。見損なったよ」

「違う違う」

 睨まれて、慌てて取り繕う。

「きみが描いた絵だよ」


 去年の冬の日に、セントラルの前に置かれていた油絵の話をする。

 描かれていた裸の女性は、七五三木さんに酷似していた。


「ああ、よくわかったね。そう。あの時のモデルはらっちゃんだったの」

「やっぱり」


 間接的に彼女の裸を見てしまったことに申し訳なくなる。


「らっちゃん、お金が無さ過ぎてバカになっちゃって、菅美すがびで体を売ったのよ。らっちゃんも菅美に通っていたから知り合いがいっぱいいるのに。ほんと、有り得ないよね」

「きみこそ従妹に対してよくそんなことが言えるね。……『ばーか』っていうメッセージは、彼女に対して?」

「まさか。全然上手く描けなかったから、自分に腹が立って書いただけ。私、人物を描くのが苦手だから。ところで、俊介くんも受験に向けて裸婦デッサンをしておいたほうがいいんじゃない? 今なら先輩がヌードモデルしてあげるけど?」

「お金は取られるの?」

「もちろん。追加料金を払えば、眼鏡を外す」

 僕は少し考え込んだ。

「掛けているほうがいいかな」


 彼女は白い歯を見せた。





「どうです? 疲れるとか、具合悪くなるとかありました?」


 眼科のスタッフが、セントラルの従業員よりかは愛想良く尋ねてくる。


「大丈夫です」


 視力に合わせてレンズをはめた検眼枠を外し、スタッフに返す。スチームパンク風でかっこいい眼鏡ではあるけれど、かけているのは少し恥ずかしかった。


 待合のソファにしばらく腰掛け、次に案内されたのは診察室だった。

 人柄のよさそうな六十代くらいの眼科医が僕の目に光を当て異常が無いか調べる。

 眼科を訪れるのは、これが初めてだった。「あら、あなた珍しい目をしているのね!」なんて言われるのかと思ったが、医者はいたって冷静だった。


「これといって問題は無さそうですね。会計の時に処方箋をお渡ししますから。それを持って眼鏡を作りに行ってくださいね」

「あの、僕の目は他の人の目と比べて変わっていますか?」


 患者が少なかったのをいいことに僕は尋ねる。

 訊かれた彼女は目をぱちくりさせた。


「あら、何か違和感があるのかしら?」

「いえ。その、……眼球を移植したら、見える色の数が減ったとか増えたとかってことはありますか?」

「さあ。……どうかしら」


 僕の質問に、彼女は斜め上を見上げる。


「と言うのも、眼球移植をした人なんて聞いたことが無いから」

「この国では、手術ができないんですか?」


 つい身を乗り出した。


 思い返せば、奏は日本で移植手術をしたとは言っていなかった。

 移植を必要とする日本人が向かう国といえば、アメリカ合衆国だろうか。

 手術にも渡米にも途方もない金額がかかるから、寄付に頼らざるを得ないイメージだ。

 遊園地の最寄り駅の前で募金を呼びかけている人たちを何度か見かけた。ポップコーン一つ分の微々たる金額だが、僕も父と一緒に何度か協力したことがある。

 しかし、募金を呼びかける彼らの家族がどのような病気なのかも、どの州に行くのかも尋ねたことはなかった。


 記憶の中に娘の眼球移植の費用を集めている家族を探したが、見当たらない。僕はそもそも、献眼した奏の父親の容貌を知らなかった。


 また一つ疑問が生まれる。


「ドナーの目を海外に持って行って、眼球移植をしてもらうことは可能なのでしょうか?」

「できません」


 医者はきっぱりと答え、柔和な目をさらに細めた。


「眼球移植はできないの。今のこの世界では」

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