2-12 星

 悪夢から現実へと戻ってきたら見慣れぬ部屋にいたので放心してしまったが、かなでの部屋だと思い出し、胸を撫で下ろす。


 円い窓から日差しが差し込んでいる。朝なのか昼なのか判別できなかった。部屋の中に彼女の姿は無い。


 どうしてこのタイミングで克服したはずの過去の夢を見たのだろう。


 脱ぎ散らかしたままだった服を着て廊下に出た。二階にたまる、むわっとした空気が一軒家のデメリットを知らしめる。

 カーペットの敷かれた階段を下りていくと勢いよく水が流される音が聞こえた。恐らく風呂場からだ。僕も後でシャワーを借りたかった。

 階段の左手のドアが少し開いていてエアコンの冷気が漏れている。野菜や肉を煮込んだようなにおいも。


 ドアの向こうをのぞくとダイニングがあった。大きな食卓の下に奏が潜り込んで、床に手を這わせている。忙しそうで、背後に僕がいることになかなか気付かない。物音を立てないようにしのび込み、彼女の真似をして食卓の下にしゃがんだ。包丁で破壊された玉ねぎの硫化アリルが目を刺激する。


「掃除なんてするんだね」

「はあっ!?」


 叫んで振り返ったのは奏ではなく、見知らぬ女性だった。

 人違いをされてしまった女性と僕は驚いて、同時に食卓の天板の裏に頭をぶつけた。


 衝撃で視界が真っ白に光る。

 まだ変な夢を見ているのだろうか。しかし強い痛みを感じているのになかなか目が覚めてくれない。

 頭を押さえ、悶えながら僕は思い出す。


 彼女は昨日、青美のキャンパスでリクルートスーツを着ていた女の人だ。





 僕が浴室を借りて戻ってきた後も、奏はダイニングチェアに腰かけ、苦しそうに腹を抱えていた。


「ら、らっちゃんと私と間違えるとか……。う、あ、しかも二人で、頭ぶつけてるし……」

「家に彼氏を連れ込んでいるなら、事前に言っておきなさいよ」


 リクルートスーツではなくエプロンを身に着けた女の人、「らっちゃん」さんは、あきれながらテーブルに皿を運ぶ。

 皿には彼女特製のカレーライスが盛り付けられていた。スパイスの香りが鼻孔をくすぐる。そういえば腹が減っていた。


「彼氏くんのお口にも合えばいいんだけど」


 彼女はサラダや福神漬けやヨーグルトまで用意している。豪華な朝食兼昼食だ。


「あ、僕、峯本俊介と申します」

「俊介くんは味オンチだから大丈夫。週一でセントラルのパスタを食べてるんだって」

「それはそれは」


 知り合いのペットが死んだと聞かされたみたいな顔で彼女は僕を見た。


 らっちゃんさんは奏の従妹で、現在は青美の大学院に通っているそうだ。

 専攻は油絵。もうすぐ二十五歳。

 彼女の誕生日の二週間後に、奏も二十歳の節目を迎えることを知る。


「親戚中の家を回って家事手伝いをしてお小遣いを稼いでるの。親戚だから気が楽だし、時間の融通も利くでしょ? 修了制作も展示の準備も同時進行してるから忙しいのよね、私」


 セッティングが済み、三人で食卓についた。奏は美味しいと繰り返して、カレーを褒めちぎっている。


「らっちゃんのごはん、本当に好き。玉ねぎが入ってないのが最高」

「入ってるよ、炒め玉ねぎがたっぷりと。原形をとどめていないだけ」

「毎日らっちゃんに来てほしい。お母さんは嫌いなものばっかり出すんだから」

「愛よ、愛」


 わかりやすく媚びる奏に対し、らっちゃんさんはそれほど反応を示さず手早くカレーを平らげようとする。


 いち早く食事を終わらせ、てきぱきと後片付けを済ませると彼女はさっさと帰り支度をして玄関に立った。僕に遠慮しているのかと思ったが、家事を済ませると油を売らずに帰ってしまうのが常らしい。


「ごちそうさまでした。とても美味しかったです。僕の分まで用意してくださって、ありがとうございます」

「セントラルの常連さんに美味しかったって言われてもなあ」


 眉根を寄せて彼女は笑った。笑った時の口元が奏に似ていて、血がつながっていることを思い出させる。


「奏、成美おばちゃんに食器用洗剤が無くなりそうって伝えておいてね。ていうか、あんたも家事くらいやりなさいよ。もう大学生になったんだから。あと、おばちゃんと彼氏くんを鉢合わせさせないように」


 奏は「はーい」と、わかっているような、いないような返事をする。

 らっちゃんさんは三和土でスニーカーを履くと僕に向き直り、品定めするように全身を眺めてきた。


「そうだ。申し遅れました。私、と申します」


 しめぎ、きらら。


 口の中で名前を復唱する。

 彼女とはどこかで会ったような気がずっとしていた。しかし名前を聞いてみても、やはり心当たりはない。記憶の引き出しを手当たり次第に開けていけばすぐに見つけられそうな、珍しいフルネームなのに。


 彼女はバッグからカードを取り出す。随分大きな名刺だと思ったら、それは一葉のポストカードだった。

 彼女の個展の案内だという。来月、都内で開くそうだ。

 ポストカードには人物や人工物を図形と組み合わせた不思議な絵が印刷されている。


「本物はめちゃくちゃ大きいから、よかったら二人で来てね」


 裏面には個展を開催するギャラリーまでの地図と展示期間が記されていた。

 その下には「七五三木 星歌」と、彼女の名前が大きく書かれている。


 「星」という漢字がぎらりと光った気がした。

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