1-12 モーニング
コーヒーを淹れる。いつもより丁寧に。
丁寧にといっても、「ブレンド」と書かれたボタンを、心を込めて押すだけだ。あとはセントラルのコーヒーマシンが、店員以上にせっせと働いてくれる。
エアコンの調子が悪いのか、店内の空気はひんやりとしていた。それなのに、僕はまた発汗している。体を冷やすべきなのか温めるべきなのか。マシンの中で豆が砕かれるやかましい音を聞きながら迷う。
世の中からやっと正月ムードが払拭されつつある清々しい朝。セントラル・
父のクリニックは休診日だそうだが、僕はこの後、行かなくてはならない場所がある。父がまだ存在すら知らないであろう、菅田美術予備校だ。年明け最初のデッサンの授業がある。
僕は二つのカップを手にし、慎重にドリンクバーに背を向けた。カップの中には、間違えて「アメリカン」を押したのだろうかと不安になるほど薄い味のコーヒーが注がれている。胃がきりきりしてきたから、このくらい濃さがちょうどいい。
ドリンクバーにほど近い場所に、僕と父が案内されたテーブルがある。
コーヒーを調達している間に、蛍光色のジャージを着た父は若い店員をつかまえていた。頼んだチーズケーキのソースの量が写真よりも少ないと文句をつけているようだ。
「初めて来たが、ひどいな。この店は」
「ファミレスなんてそんなもんだよ」
カップをテーブルにのせながら横やりを入れる。
「だから嫌なんだ、ファミレスは」
ファミレスに訪れた経験がほとんど無い父は、また簡単に騙された。
店員は、僕が注文したたまごサンドをテーブルに置き軽く頭を下げると、むすっとしたまま去ろうとする。高圧的な客の態度にも怯まず勇ましい。感服するあまり、「サンドイッチの具が写真より少ないのでは」という文句をうっかり飲み込んでしまった。そしてやっと気がつく。
「
「えっ?」
セントラルの制服を纏い、髪をまとめた奏が振り返った。瞬きを繰り返す瞼と、ぽかんと開いた口が濃く色付いている。いつもと同じ眼鏡をかけているのに普段とは印象がかなり異なっていて、一見しただけでは誰だかわからなかった。
「ここで働いてるの?」
父を前にして、つい彼女に訊いてしまった。
「言ってなかったっけ……?」
「俊介のお友達ですか」
好奇心を隠そうとしない父に僕は慌てる。
「高校の友達だよ」
「初めまして。俊介の父です。えらいですねえ、アルバイトなんてして」
クレームを入れたことをきれいさっぱり忘れて、父はにこやかに笑う。彼女は一拍置いて、「小池と申します」と口角を上げた。
「じゃあ、また」
僕はつい、「空気を読んでくれてありがとう」と言いかけた。
彼女は頭を下げ、ドリンクバーに目配せする。「よかったらコーラもどうぞ」と、セントラルの店員らしからぬ配慮をしてから厨房に戻っていった。雀の涙ほどのソースがかけたれたケーキを父はフォークで口に運ぶ。
――小学三年生の時、家族四人で有名な観光地へ訪れた。
参拝客で賑わう立派な神社の横に、ぽつんと一つだけ屋台が出ていた。「高級牛串」と書かれた暖簾を下げていた。
なぜそんな気を起こしたのかはわからないが、母に似て無駄遣いを嫌う姉が、自分の小遣いで一本だけ串を買った。彼女は薄切りの肉を一口かじると、すぐに顔をしかめて父によこした。「ぎとぎと」と評されたその肉を、父は大絶賛した。僕も残りを貰って食べた。たれが甘くて気に入った。脂っこさも、姉が言うほど気にならなかった。肉は僕と父で取り合いになった。
口の周りをべとべとに汚す父と僕を見て、母と姉が「親子だね」とあきれたように笑っていた――。
「味はまあまあだな」
見るからに乾燥しているチーズケーキに父は顔をほころばせている。
僕は手つかずのたまごサンドと父をテーブルに残し、ドリンクバーに戻った。奏はドリンクバーの棚の前にしゃがんでいた。棚の扉を開け、原液のタンクから伸びたチューブをつまんで遊んでいる。滞りなく飲み物を提供するために必要な作業には見えなかった。カゴからグラスを探すふりをして、僕もかがむ。
「セントラルできみが働いていたこと、どうして今まで気付かなかったんだろう」
「私、日曜日と祝日しか働いてないから」
彼女は神妙な面持ちになる。
「進路の話をしに来たんでしょ? 私がいたら話しにくいよね? もうすぐあがるからコーラでも飲んで粘っていてくれる? この店で一番美味しいよ」
ドリンクバー代はサービスすると付け足した。
「店長にばれたらまずいから、会計する時は私を呼んでね」
「安心して」
僕のことで気を揉む彼女のおかげで、汗も胃の痛みも和らいできた。
「父とはたまたま遭遇して、一緒にモーニングを試そうっていう話になっただけ。チーズケーキが美味しいって喜んでる」
「じゃあ、まだちゃんと話してないわけ?」
従業員は、貴重な客に対して急に目くじらを立てる。
「受験まであと一年だよ? 言ったでしょ、私も親に言おう言おうと思っているうちに、音大受験当日になってた。気付いたら目の前にピアノ椅子があって、自分の吐き戻しまみれだったって」
「初耳だよ。何にせよ、僕の葬式にはまだ招待できないみたい」
客の来店を知らせるチャイムが鳴る。よしださんの「いらしゃいませえ」という明るい声が店に響き渡る。
「……よしださんって、愛想がいいからちょっと浮いてるんだよね。今日はモーニングの初日だから、特に張り切ってるみたい」
彼女は声を潜める。
「愛想の悪い店員が浮くっていうのなら、まだ頷けるけど」
「メイド喫茶の、ツンデレキャンペーンの日だとでも思って我慢してよ」
彼女は苦笑いして立ち上がると、
「俊介くんの命日、今日かもしれない」
と青ざめた。
僕も腰を浮かし、ドアのほうを見やる。
愉快そうに笑いながら入店してきた五人組がよしださんに案内されている。五人は僕も奏もよく知っている、菅美の仲間たちだった。頭の中でJアラートと緊急地震速報が同時に鳴る。彼女は「席、なるべく離すから」と陸上選手のようなスタートダッシュを決めた。
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