第2章「現代日本の片隅にて」

第3話「ドラウサの苦難と幸福」

 シンも後々になって知った赤女と黒女の正体は、転生の女神と転移の女神というらしい。


 赤女が転生の女神。


 黒女が転移の女神。


 黒女はシンのように人間との戦いに敗れた魔物を選び、この世界へ転移させる。目的は自分でいっていた通り、世界を滅ぼす事らしい。


 赤女は、そんな黒女の野望を阻止しようと、力を持った者を転生させて守りに当たらせようとしている。


 魔物なら世界を滅ぼす方を選ぶし、勇者たちならば守る方を選ぶのが通常で、シンのように引っ張り合いになる事は珍しい……らしい。


 その珍しい状況が、果たしてシンにどういう影響を与えたかといえば……、


「うー?」


 うつらうつらと、まどろみからシンが目を覚ますと、おかっぱ頭の黒髪が見えた。


「んしょ、んしょ」


 おかっぱ頭は5才の男の子で、慎重にハシゴから下りようとしている。


 シンはしばしばする目を擦ると、


はるくん、何してるの?」


 おかっぱ頭の男の子・晴へ意識を向けた。これは声ではなく、テレパシーに近いもの。


 呼ばれたと思った晴は顔を上げると、


「おっす。危ないから、ちゃんと気を付けて下りるよ」


 ハシゴを下りてる事をいっているのだろうから、シンは目をこすりながら、


「うん、気を付けて」


 しかし今、シンの身に起きている事は、何も教えてもらえていない。


 そして完全に開けられたシンの目に入った景色は、天井近くまであるキャビネットの上に放置されている現実だ。


「ぅおい!?」


 いささか情けない声を出してしまうシンが存在している世界とは、あの勇者と戦った世界ではなく、日本。


 そしてシンの今の姿は、5才の男の子が抱き上げられる程度のだった。



 転移と転生で引っ張り合いになった結果、シンはドラゴンの記憶と知識を保持こそできたが、ウサギに変わったのである。



 そして名前も、今やシンではない。


 今の名は、晴が名付けた。


「ホシちゃん、ばいばーい」


 ハシゴを下りきった晴が、リビングからホシを見上げて手を振っている。一般的な家庭のリビングであるから、キャビネットの高さは2メートル30センチほど。18センチ程しかないシン――いや、ドラゴンの記憶と知識を持つ子ウサギ・ドラウサのホシにとっては目が眩む様な高さといえる。


「またやったな!」


 ホシの声には、火の山に住み、人々の恐れを集めた暴虐竜であった頃の威厳はない。晴に負けず劣らず甲高く、舌っ足らずに聞こえてしまうくらい。


 故に怒鳴られようとも、晴も涼しい顔だ。


「がんばー」


 何を頑張れというのだろうか。


「お母さんがおやつ作ってくれてるから、がんばー」


 下りてこうという事かも知れない。しかし晴は自分が使っていたハシゴなど、早々に片付けてしまっている。


 跳べというのか、それとも飛べというのか。


「見ーてーろー……」


 クニクニと身体を揺らせるホシ。体長18センチのホシにとっての2メートル30センチは、ドラゴンだった頃の尺に直すと100メートルを超えている。


 それでもドラゴンだった頃は我が物顔で空を飛んでいたのだ、とホシは身体に力を入れた。


「いーくーぞー!」


 そして飛ぼうとしたのだが、そのタイミングを失わせる女の声が来る。


「こーら!」


 まず晴を𠮟り、その後、キャビネットの上にいるホシへ手を伸ばしたのは、晴の母親だ。黒髪のロブを三角巾で纏め、エプロンを着けている母親は、小柄な身体で精一杯、手を伸ばしてホシを抱きあげ、


「ホシちゃんをいじめないでくださいね!」


 床にホシを降ろした母親は、こつんと晴の頭に拳を落とす。叩かれたという程ではなく、「お母さんは怒ってます」と示す程度のポーズに過ぎず、晴は拳を当てられた頭を押さえるのみ。


「えー、一緒に遊んでただけだよ」


 楽しく遊んでたんだというのは本当だ。晴にとってはハシゴも飛び降りられる高さで、そういうのが楽しい年齢でもある。


 ぷくっと膨れたのは晴だけでなく、足下に来ているホシもふくれっ面をして、


「そうだぞ。僕にもっと優しくするんだ」


「むっ」


 晴はキッとホシを見下ろすと、膨れた頬を更に膨らませる。


「そんな事いってると、もうおやつあげないもんね!」


「!?」


 それに対し、ホシは目を白黒させた。


 ――それは困る!


 テーブルから漂ってくる香りは、杏仁プリンか。本来、ウサギに与えて良い物ではないのだが、ホシは「ウサギに見えるがウサギではない」という特異な存在である。ドラゴンとして転移する事と、ウサギとして転生する事とが重なり合うという状況だったからだ。


 そしてホシがショックを受けた顔をしてイルと、晴は調子に乗る。


「おやつあげないもんねー。あげなーい!」


「だからね、晴くん。僕に優しくするんだ……」


 ホシの声はトーンを下げていき、それと反比例して晴は上がって行く。


「あげないもんねー」


 が、そういっていると、晴の頭を母親が掴み、


「仲良くできないなら、ふたりともあげませんよ?」


 母親は笑っている。


 しかし笑いは笑顔を意味していない。


「ごめんなさい……」


 晴を黙らせるのだから、怒り顔だ。


 そして母親の怒り顔は、今まで晴とぶつかっていたホシにも効果を及ぼす。


「あの、由衣ママ……もうちょっと、優しく……」


 怒られているのは晴だが、ホシも恐縮してしまう程。


 母親――由衣は、抗議してくるホシを抱き上げて、


「ホシちゃんも、確か翼じゃなくて風を使って飛ぶのでしたっけ? そんな事して部屋を無茶苦茶にしたら、わかっているでしょ?」


「……はい」


 シュンとしたホシに、由衣は「はい」と頷き、息子にホシを渡す。


「二人で仲良く食べて下さいね」


 晴は「はい」としかいえなかったが、晴に抱きかかえられているホシはジト目で由衣を見ており、


「……由衣ママ、転生の女神の神官なんだろ? 何でいちいち怖いんだよ……」


 由衣がホシを受け入れられている理由は、これである。


「いつか、もとのドラゴンに戻ってやるからな」


 不満だらけだ、とホシ頬を膨らませるが、由衣はその頬を両手で押さえ、


「そんな事したら、30分と保たずに死にますよ?」


「……」


 ホシは何もいえない。由衣に対しては。


「晴くん、僕のを半分あげるよ」


 自分を抱っこしている晴へは、仲直りしようといえる。


「ホント!? じゃあ、僕のも半分あげるよ」


 結局、それでは元の量と変わらないのだが、三人が望む結末は「これ」に違いない。


 並んでテーブルにつく晴とホシを見ながら、由衣は転生の女神が告げた言葉を思い出す。


 ――彼に、悔いを与えて下さい。


 聞いた直後は酷い言葉だと思ったのだが、転生の女神――赤女の真意は、ホシを苦しめろといっているのではない。


 ――この世を去る時、惜しいと思う事を一つ一つ増やして行きなさい。


 暴虐竜ぼうぎゃくりゅうのシンが死を迎えた時、何一つ残っていなかった感情を与える事が、赤女の願いだ。


 ――将来を案じる者を一人でも多く。将来を見たいと思える者を。それでも、ホシとしての死は、その者を信じられるからこそ悔いはないと感じられるものに。


 晴と並んでおやつを食べているホシは、少なくとも暴虐竜のシンだった頃のように、食べたい時に食べ、眠い時に寝るという自由はない。


 自由はないが――恐らくは幸せなのだ。

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