第7話「ドラウサが来るぞ」

 赤女――転生の女神に使える神官という身分であるから、由衣ゆいも転生者である。


 神官といえば非力な印象をもたれやすいのだが、それは都市部にある神殿に使える神官であって、地方にいる神官は、筋力は兎も角、暴力に対しては強い。


 無論、由衣もそうだ。信仰だけを守っていればいい訳がなく、農作業は勿論、害獣の駆除や村の自警にも関わらなければならなかったのだから。


「何だ、ババア!」


 腕を捕まれた半グレは怒声を浴びせるのだが、由衣にとっては馬耳東風というもの。どれだけ凄もうとも、刃物を持った盗賊や、巨体の魔物よりも驚異とは映らない。


 そして赤女の加護を受けている由衣は、肉体的にはピークの23歳を維持している。


「……」


 由衣が無言で半グレの腕を捻り上げるのは、ババアと呼ばれた腹癒せばかりではない。顔は組み敷かれていた少年へと向け、


「大丈夫ですか?」


 声をかけるだけで手を貸さないのは、由衣なりの気遣いでもある。


「……はい」


 折れた鼻を押さえながら少年が立ち上がると、由衣は「じゃあ、立って下さい」という告げる。


 そしていうが早いか、手を捻り上げていた半グレの身体をテーブルについたままになっている二人の方へ突き飛ばす。


「逃げて下さい」


 店に迷惑がかかるから、と冗談めかしていう由衣は、それこそ半グレにとって、これ以上にない挑発だ。


「てめェ!」


 没個性的な怒鳴り声と共に半グレの拳が来るが、何が何でも強振しなければならないとでも思っているようなパンチは、由衣にとっては速い内に入らない。


 第一、大振りしてしまっているのだから、由衣が一歩でも踏み込まれれば安全圏に入れる。


 安全圏に入り、由衣は半グレの頬を思い切り張った。右から左へ一回、左から右へ往復させて二回目。


 こんな半グレであるから、拳を顔面に受けて鼻血を出すくらいの事には耐性があるのだろうが、平手打ちは流血はさせない。


 ただ皮膚の痛覚を刺激する事に関していえば、拳よりも掌が優れている事と、単純に平手打ちが与える「屈辱」という精神的ダメージが半グレを足止めする。


「……こいつ……」


 怒りに震えるが、その震えも由衣から見れば隙なのだ。


 もう一度、由衣は半グレを仲間の方へと突き飛ばす。衝突した二人は手足を絡めて倒れ込む。


 残った一人は、その二人を躱して由衣を攻撃しようとするが、飛び越える事と攻撃する事を両立させようとしたのか、拳ではなく蹴りを選んでしまう。


 拳が当たらないのに蹴りが当たるものか、と由衣は振り上げた足がブラインドになる方へ移動する。


「片足立ちって危ないんですよ?」


 ここで軸足の膝でも踏み抜けば、障害が残る可能性もある怪我を負わせられるのだが、由衣はそれ以上にな攻撃を選ぶ


「ヒィッ!」


 間が抜けたような高い悲鳴を上げさせるのは、由衣の爪先が股間にめり込んだからだ。


 棒立ちになれば、残り二人の上へ被せるように突き飛ばす。


 ――さあ?


 三人がもつれ合うように倒れると、由衣はひらりと身を翻す。


 ――来るしかないですよね?


 席を外している上野が、この半グレを群れ、自分がボスだと思っているのならば、ここまで虚仮こけにした由衣を放置できるはずがない。


 ***


 人がいない方が良いと考えたのは、由衣のミスだろうか?


 アーケードから程近い都市公園は、34000平方メートルの広さを持つ都市公園は、森という程ではないにしろ雑木林を持つ。人目に付かないというのは利点だが、隠れる場所が多いというのは難点だ。


 由衣が公園へ入ったのが合図になる。


「神官風情が」


 由衣へと投げかけられた声は嗄れていて、ゴブリンである事を隠す気が失せたと感じさせられた。


「はい、神官風情です。ただ、私はどちらかといえば、ナンですけれど」


 ナン――神官の中でも武闘派の尼を指す言葉である。由衣が半グレ程度ならば軽くあしらえるのは、この力と記憶があるからだ。


 しかし上野は嘲笑は止まらない。


「こんなところで何ができる?」


 武闘派の神官といっても、神官には違いない。転生は転移と違い、異世界の肉体を持ち込める訳ではない。碌な装備もなく、また鍛える限界が変わっている今、由衣の力は衰えているといいたいのだろう。


 その嘲笑を分かった上で、由衣は頬に手をやり、「そうですねェ」とふざけた口調。


「自分の事は自分でできますよ。今も変わらず、そうしていますからね」


 異世界にいた時から、料理や洗濯のような当番制の方が都合の良いものは当番制だったが、基本的に自分の事は自分でしてきた。それは今も同じで、晴が生まれてからは、晴の世話も由衣がしている。


「料理の腕は、上がったでしょうね。お陰でお店をやれるくらいにはなりましたから。掃除にも気を遣ってますよ。ちょっとサボっただけでも、汚れが目立つ前に虫が来ますから。食堂で、それは致命傷になってしまいますねェ」


 こういう態度が、今の上野は最も堪えられない。


「バカにしてるのか!」


 怒鳴り声は、ハッキリと聞こえる。


 由衣の挑発に乗ってくれたのだ。


 ――してますよ。挑発に乗ってくれないと、この薄暗さで雑木林の中にいたら、ゴブリンを見つけられないですから。


 由衣は視線を上げた。樹上に仁王立ちする上野の姿が由衣の視界に入ってくる。


「そこらしいですよ」


 人ごとのようにいうのは挑発を続けているからか?


 少なくとも上野はそう思った。


「悲しいかな、ひ弱な神官が、更にひ弱になってやがる!」


 低級なゴブリンだからといって嘗めるな、と上野は跳躍した――しようとした。


 跳躍を阻止した声の主こそが、今、由衣が話しかけた相手である。


「……今日は、デザートが三つもあったんだ」


 それは声と言うよりもテレパシーのようなもので、由衣と上野にのみ響く。大声で怒鳴っている訳ではなく、寧ろ静かに潜められたような声であるのに、耳のすぐそばで話されているような大音量になるのは、相応の怒りが込められているからか。


「何だ!?」


 突然、巻き起こった風に上野の足がすくむ。


 足を竦ませた風は渦を巻いて上野を捉え、林の中から広場へと運んだ。


 広場にいるのは、高々18センチに満たない子ウサギ。



 ホシだ。



 上野の姿を黒い相貌が捉えると、ゴブリンの身体が火を噴いた。


「ああああ!」


 上野が悲鳴をあげるが、ホシは意に介さない。


「お父さんとハルくんと僕と、三つあった、つぶつぶオレンジ入り牛乳ゼリー……。楽しみにしていたのに、こんなののために……」


 ただ頬を怒りで痙攣けいれんさせながら思い出すのは、夕食のデザートに、と由衣が手作りしていた、オレンジをまるごと入れて作った牛乳のゼリーだ。


 風を操るドラゴンであったホシは、酸素を圧縮して発火させる。


「何? 何!?」


 炎で焼かれる上野は理解が及ばないが、ホシも理解して欲しいなどとは思っていない。


「この悪党、オレンジ一粒の価値もないんだよ。こんな能なしが、どうして僕を見下ろしてるんだ!?」


「それはホシちゃんが吹き飛ばしたからでしょう」


 至極真っ当な事をいう由衣に、ホシは大きく舌打ちし、


「消えろよ。あの世で後悔できるぞ。僕に魔法を使わせた事を」


 この物言いで、ゴブリンも気付く。


「お前、暴虐竜のシン……」


 火山を根城にしていた風の竜。


「お前が、転移じゃないだと……?」


 上野が意識が保てたのは、そこまでだった。


 炎から一転、真空を作り出した星の魔法に、何もかもを刈り取られる。


 倒れ込んだ上野の身体は芝生の上で崩れ落ちた。魔物の死体は残らない。生き返る権利を持たないが故に。


 それを見届けた由衣は星を抱き上げ、


「ありがとうございます」


 しかし由衣に礼をいわれても、ホシはむくれっ面のまま。


「もっと、こう……時間に余裕を持って呼んでよ」


 夕食を食べ終え、冷蔵庫からデザートが出て来た所で呼ばれたホシは、食べ損ねていた。


「つぶつぶオレンジの牛乳ゼリー……。どうせ。もうハルくんが食べちゃってるんだろうなぁ」


 父親と晴とホシの三人分、あったのだが、デザートを残して席を立ったホシの分など晴が食べているに決まっている。


 そんなホシの頭をヨシヨシと撫でながら、由衣はいった。


「冷蔵庫にある牛乳パックは、全部、見ましたか?」


「う?」


 見上げてきたホシに対し、由衣は――、


「まだ作り置きがありますよ」

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