壁と音と
楽しそうな声が、遠くから聞こえてきます。
どこかで騒いでいる声が、コンクリートの冷たい壁を反響して、木製の扉を通して、わたしの元まで届いていました。
その、楽しげな声の響きが、わたしの胸を締め付けます。
時計を見ると、お昼が過ぎていて初日の今日は下校する時間になっていました。
どうしてわたしはここにいるの?
どうしてみんなと一緒にあっちにいないの?
どうしてわたしは楽しくないの?
最近まで掃除の時間でしか入った事のなかった、職員室の近くにある小さな部屋の中で一人、自問自答が始まります。
そのくらいしか、ここではすることが無いのです。
中央に置かれた大きなテーブル。それを囲むようにパイプ椅子が置かれて、窓際には古びたソファと、その上に小さなクッションが置かれています。
壁には他の教室と違ってホワイトボードはなくて、壁にはいくつかのポスターとカレンダーがかけてありました。
ポスターにはわたしくらいの子どもの写真んと一緒に、大きく言葉が書いてあります。
『悩みがあるなら言ってみて』
『悩んでいるのはあなただけじゃない』
『口にしてみよう。それだけで心は軽くなるから』
決まり文句のような、作られた言葉でした。
今までは見向きもしなくって、他人事のようでしたが、今ならわかる気がします。
あの日、夕暮れに染まった部屋の中で、お姉ちゃんに自分を話した時に、すーっと肩が軽くなった気がしました。
話した事は全部ではありません。
つらかった事のほんの一欠片で、本質からはそれた出来事を口にしただけ。でも、たったそれだけの事なのに、引っ掛かっていたものが抜け落ちて、これが救われるってことなのだと、そう思いました。
けれど、今はまた、暗い場所に戻っています。
周りから隔離された、身を守るための避難所。
それが、この場所にわたしが感じた役割でした。
片方の手をテーブルに伸ばして、そのまま顔を横にします。そしてカーテンを閉め切った窓を見つめ、その先の遠くの事を考えます。
また、ここにきてしまいました。
母が亡くなったあと、どうしようもなくなると、先生がここで休んで良いとよって言って、連れてきてくれました。
ここは確かに気が安らぎますが、同時にわたしを周囲から遠ざけていきました。
日に日につもる、
悪い事をしているわけではないのに、罪悪感を感じて、それでもここに来ていたのは、教室で授業を受けるより幾分も楽だったのです。
ここでは人の目を気にする必要はありません。
夜に眠れないせいで、急に襲いくる睡魔に負けてしまっても、唐突に訪れる
だから、初めのうちはここに避難しました。少しでも元気が出るその日まで。
今、再びあの頃と同じように過ごしているわたしを、お姉ちゃんが知ったらどう思うのでしょうか。その事を考えたら、どうしても怖くなってしまいました。
そして、そんなふうに考えていた時でした。突然、こんこん、とやさしく扉を叩く音が聞こえてきて、急いで崩していた姿勢を正しました。
背筋を伸ばし、音の方へ顔を向けると、程なくしてゆっくりと扉は開いて、おっとりとした女の人が現れました。担任の
髪は肩の少し上くらいまで伸びたボブカットで、少し疲れが溜まっているのか、目元にはいつも黒いクマがありました。でも、その視線は穏やかで、見る人を安心させました。
「お待たせ、
見た目と同じくらい、おっとりとした落ち着いた声で、先生は話します。
「はい、おかげさまで。先生は時間大丈夫なんですか?」
「うん。もうみんな下校したから」
そうなんですか、と言って下を向きました。
音が聞こえたので、みんなが帰った事は知っていましたが、言葉で言われると、やっぱりどこか、胸が痛みました。
少し落ち込むわたしに、先生は引き続き変わらない声で、話しかけます。
「あ、そうだ。
え? と顔あげました。
不安でした。教室では里奈ちゃんに迷惑をかけてしまったので、何て言われるかわからなくて、でも、
「『また明日会おうね』だって」
その言葉を聞いて、目を見開きました。
さっきたくさん泣いたので、涙は出てきませんでしたが、鼻がつーんとして、擦り過ぎてヒリヒリする目元が、また熱を持ちます。
また、会ってもいいんだ。
そう思うと、うれしいのに、胸がまたズキズキと痛んで。そんな、感情の整理がつかないわたしに、先生はやさしく話しかけます。
「よかったね」
その一言に、わたしは静かに頷きました。
「クラスの皆んなも心配してたし、男の子達も反省してたから、今日のことはそこまで気にしなくても大丈夫。でも、あまり無理しないでね。
「はい。でも、明日からはちゃんと教室に行きます。わたしも、新しいクラスの人たちに挨拶したいです」
無理ではなく、焦っていたわけでもなくて、わたしも早くみんなに挨拶したかったのです。確かに不安はありましたが、せっかく同じクラスになれたのですから。
それでも、先生はやっぱり不安なのか、真剣にわたしの目を見ていました。ちょっと怖かったですが、わたしも負けないように先生の目を見返します。なんとなく、この視線に負けたら、大丈夫だと言う事を証明できないような、そんな気がして。
「………わかったわ。でも、本当に無理しちゃダメね」
真剣な睨めっこは、先に先生が折れて、言葉の後に、大袈裟に演技っぽく息を吐きました。
「はい。わかってます」
そんな先生を見て、少し笑いながらも自然と出たわたしの返事に、先生は「よし!」と嬉しそうに言って、微笑みます。
「それじゃあ明日のためにも今日はよく休まないとね。えっと、確か………この後は新しいお家の……向かいの高校に通っているお姉さんが迎えにきてくれるのよね?」
「はい」
頷くと、何故か先生は、少し複雑そうな表情をしてから、時計を見ました。
「………お姉さん、少し遅いね。正門から高校生達が帰るのが見えたから、そろそろきてもいい頃だと、思うんだけど」
わたしも時計に意識をまわし、唇を引き締めました。
終わったらくるとお姉ちゃんは言っていたのに、まだ来ていません。何かあったのか、それとも別の理由なのか、頭の中で考えても答えは出なくて、不安は広がって。でも、心のどこかでは、少し安心していました。
そのどっちつかずの感情が、表情に出てしまっていたのでしょう。先生は急に「お姉さんと何かあったの?」と訊ねました。
「………え」
「複雑そうな表情をしてたから。気のせいだったら、ごめんね」
「あ………いえ。確かに、昨日少しもめてしまいましたけど、でも仲違いしたわけじゃない……と思います。帰ったら、ちゃんとお話しして、謝りたいですし」
それに、今朝も変わらず、あの人はやさしかったですし。
「そうなんだ。でもそれなら、どうしてそんなに不安そうなの?」
「それは………」
その続きを、わたし自身うまく表現できなくて、回答できずに、また下を向いてしまいます。
「ごめんね。困らせるつもりじゃ、なかったのだけど」
目を伏せて、申し訳なさそうに、先生は言います。
「いえ、そんな。でも、あの人はとってもすごくて、やさしい人なんですよ。みんなにも自慢したいくらい」
そこまで口にして、あ、と朝に別れ際で言われた事を思い出しました。
「そう言えば朝、先生に挨拶したいって言っていました」
え? と先生が驚いたように目を丸くしましす。
「わざわざ、私に?」
「はい。そう言っていましたよ? あ、もしかして、この後、都合が悪いですか?」
「ううん。そんな事ないけど」
先生は気まずそうに腕を組んで、一度考えた後「そっか」と小さく言って、また普段の表情に戻りました。
「わかったわ。それなら、お姉さんに渡したいものがあるし、少し準備しないと。先生はこれから職員室に戻るけど、
「あ………それなら飼育小屋に行ってもいいですか? しばらく行っていないので……久しぶりにみんなに会いたいです」
「うん、いいよ。それなら、途中まで一緒に行きましょう。新しいお家の事や、お姉さんのこと、先生も知りたいわ」
その言葉の後に、椅子から立ち上がり、二人でこの部屋を後にしました。
出来ればもう来ないようにと、扉を閉める際に、再び頭の中で決意して。
歩いている最中に、窓から隣の高校が目に入りました。
確かに、ポツポツとですが下校している生徒がいて、もうすでに学校が終わっているのがわかります。
本当に何かあったのでしょうか?
急に予定が入ってしまったのでしょうか?
それとも………と絶対にない考えが、頭をよぎって。否定するように、強く、目を伏せました。
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