明日の橋

 少し肌寒い外から部屋に戻ると、部屋の中は違った意味で外よりも空気が冷たく、重く感じた。


 足下を見ると布団が二つ並んで敷いてあって、昨日と同じように隙間もなくピッタリとくっついている。どうやら、まだ嫌われたわけではないらしい。

 

 最初は戸惑いを感じたこの敷き方も、今はこの方が安心する。とくに今日はノアに責められてしまったから、余計にそう思えた。


 で、その本人はと思い部屋を見渡すと、すみの方に膝を抱えて小さく座っているのを見つけた。


 向こうもこちらに気付き、あ、っと小さな声を出して、また下を向いてしまった。

 

 どうやら落ち込んでいるみたいで、話したい事があるのに、言いづらい。


 どうしたものかなと考えていると、母のせいで少し乱れてしまったノアの髪を見て、ある事がひらめいた。


「ねえ、もしよかったらだけど、」


 そう言って机の引き出しからヘアブラシを取り出してノアに尋ねてみる。


「髪の毛をといてあげようか?」



 私が布団の上に正座で座ると、ノアはしとしとと近づいてきて、私に背を向けて正座で座った。

 

 昼間よりも少し距離をあけて、ノアの頭部が視界を埋める。

 

 そこから背中までかかっている髪を、そっとすくうように手に取った。


 私の髪よりも細くて、柔らかくて、それでいて少し変な癖がついている髪を、手でやさしくほぐしていく。


 ある程度ほつれをとったところで、手にヘアブラシを持って髪へと入れた。


 ノアの髪は長いから、先端の方からブラシを入れて少しずつほぐしていく。

 

「ごめんね。母さんは昔から不器用で、家事とか全くできないんだよ。まさか、あそこまでとは知らなかったけど」


 料理もできないし洗濯もできない、もしも私がいなかったらどうなるのかなと思ったけど、多分どうもしないのだろう。


「いいんです・・・わたしの母も、不器用でしたから、慣れっこです。それに、わたしも人のことは言えないので・・・」


 そうなんだ、と相槌あいずちをうつ。

 洗濯や食器洗いができていれば十分だと思うけど。本人はそう思っていないのだろう。

 

 ブラシを入れるたびに、歪んでいた髪が少しずつまっすぐに伸びていく。


 髪を撫でる音や、感触が思いのほか心地よくて、少し楽しいなと思い始めたところで、ノアがゆっくりと口を開いて話し始めた。


「今日は、すみませんでした。あんな、責めるように言ってしまって」

「いいって、私も気づけた事があったし」


 それに、気持ちを押し込めて溜め込んでしまうよりも、少しでも吐き出してくれたほうがいい。


「母さんも、ノアちゃんが怒れるようになってうれしそうだったよ」

「え・・・? 何故ですか?」


「さっきも、昼の時も、許せない事があったから私に意見をしてくれたんでしょ。おこるって、嫌な感情かもしれないけど、やっぱり生きていく上で大切な感情で、時にはさらけ出して伝えることも必要なんだよ」


「それでもわたしは、怒られると怖いですし、辛いです。それにお姉ちゃんは私に怒らないじゃないですか」


 今も、やさしいですし・・・、と付け加えて言われ、何だか少し恥ずかしくなる。


 そんな風に思われていたんだ。私は優しくなんてないのに。


「怒る理由がないから、怒らないんだよ。頼んだ仕事はしてくれるし、むしろ積極的に手伝ってくれるでしょ」

「それは・・・わたしもここに住んでいるのに、何かしないと申し訳なくて・・・」


 会話が途切れて、部屋が静かになる。

 ノアの肩には力が入ったままで、何を思い詰めて、どこか納得がいかないようだった。


 仕方がない事なのかな。

 ノアにとって、私は数日前に出会った歳上の他人で、ここはまだ、住まわせてもらっている他人の家なのかも知れない。それなら気を遣うなって方が難しい。


 けれど、その先へ進めと母は言う。何て無茶苦茶で、難しい事なのだろう。


「・・・ごめんね。気を遣わせてばかりで」


 情けなくて、苦しいな。


「気を遣ってもらってるのは、わたしの方じゃないですか・・・」

 

 そのとおりで、私もノアに気を遣っている。

 どうして互いに相手を想っているのに、空気は重たいままなのだろう。


 少しだけ心に問いただして、やめて、私からも聞きたかった事を話し始めた。


「ノアちゃんは、友達って昔からいる?」


 そう聞くと、こくりと頭が下がり、それが返答だとわかる。


「私はさ、ずっと友達がいなかった・・・違うかな。作らなかった。大した理由はないけど、作る必要性を感じなかったし、そんな余裕もなかった、のかな」


 話しかけてくれた人は沢山いた。私から話しかけた事も。それでも、その場だけの関係で終わらせて、そのまま離れて行く。

 互いに離れて、それが自然で、良い事だと考えてた。


「でも、友人関係ってそういう事じゃないんだよね」


 中学で初めて友達と言える人と出会えた時に、この関係には理由なんて要らないんだと知った。


「ねえ。ノアちゃんはさ、その点においては私よりも経験が多いと思うんだけど、やっぱり、大切な友達からの誘って、受けるべきかな?」


 髪をとかし終えて、手を下に落とす。

 絡まっていた髪の毛が解け、光の反射が一定になって、艶やかに見える。


 すぅ、っと息を吸う音がして、目の前に見える肩が上下に動いた。


「わたしはその人ではないので、どうかは分かりませんが・・・会いたいなって思います」


 小さな声で、自信がなさそうだけど、はっきりとした回答だった。


「学校が楽しかったのも・・・母が亡くなって落ち込んでいても通えたのは、友達がいたからなので、会えるなら、会いたいです」


 そうなんだ、と返すと、こくっと頭が下がった。


 “友達がいたから通えた” 知識が欲しくて通っていた私とは大違いで、正しい考え方だなって思う。


「お姉ちゃんは、違うんですか?」

「え・・・」

「昔はそうでも、今はいるんですよね?」


 視線を下げて、目を細めた。

 私は・・・どうなんだろう。


 何度か休日に遊びに行った事はあるけど、それは誘われて、その日に予定がなかったからで、予定があればそっちを優先したし、そもそも私から誘った事はなかった。


「わからない、かな。でも・・・今は少し心配してる」


 いつもはしてこない急なお誘い。

 学校はもう少しで始まるのに、それを待てなかった行動。

 

 それらが、どうしても胸に引っかかる。


「なら簡単じゃないですか」


 ノアがこちらに向き直り、私と目を合わせた。少しだけ無理をしているようで、でも穏やかな表情で、私をじっと見据えていた。


「会ってあげて下さい。きっとその方がいいと思います」


「でも、それだと・・・」

「わたしは大丈夫です。母が亡くなる前はいつも待っていたので、一人は慣れています。それに・・・」


 ノアは視線を逸らして、一呼吸おいた。

 吸い込まれるように、意識がノアの方へと向かって、そして、


「わたしがいなかったら、?」

 

 冷たく感じる言葉たちが、私に向かって放たれて、突き抜けていった。


 息を呑み込んだ。

 分かっていたはずなのに、指摘されて実感すると、身の毛がよだつほどの寒気が襲ってくる。


「あ、えっと、ごめんなさい。偉そうな事を言ってしまいました」


「んーん、ごめん。その通りだと、思ったから・・・」


 言い当てられて、そう、思ってしまったから。言い訳なんてできなくて、それこそ全てが嘘をついて、裏切るみたいで。


「そうだね・・・ノアちゃんの事が心配だし。それに、出来るだけ、そばにいてあげたい。もちろん、そこまで心配しなくても大丈夫なのは分かっているけど・・・」


 額に手を当てる。それによって何かが変わるわけではないけど、意識を手が触れている額の部分に集中できて、視界が狭まり、外からの雑音を減らすことができる。

 でも、どんなに考えても、自分に嫌悪しか感じない。ノアを信じてあげればいい、それだけなのに。


 私が下を向いて考えていると、くすくすと遠慮気味な笑い声が聞こえてきて顔を上げた。


「お姉ちゃんって凄いですよね。普通そこまで悩まないですよ」

「そうかな?」

「そうですよ。だって遊びの約束ですよね? そこまで真剣に考えること、ないと思いますけど」

「遊び、か・・・」


 考えるのをやめて、敷いてもらった二つの布団に寝転がって、天井を見上げた。


 私の布団は、もうずっと長い事使ってきたせいで綿もくたびれて、少しひんやりと冷たくて、それに引き換えノアの布団は、あったかくて、ふわふわしてる。


 なるほど、と・・・これは気持ちよくて寝坊してしまうかもしれない。

 ゆっくりと目を閉じる。照明がついたままで、眩しくて、それでも眠ってしまいそうだった。


 このまま寝てしまおうかなと思っていると、ギシギシと近くで動く音が聞こえた。


「・・・もしかして、遊びに行った事ないんですか?」

「んー、あるよ。基本付き添いだけど」

「一人の時って、何をしてるんですか?」

「えーと、なんだろ? 勉強と家事、かな?」

「タブレットに入ってる漫画は?」

「あれは・・・友達がおすすめしてくれて、読み始めた。読んでみるといいものだね」


 ノアから質問されて考えてみると、いつも付き合ってばかりで、誘ったこともなければ、自分から何かを始めた事って殆どないと思った。

 

「お姉ちゃんって・・・その、息抜きとかしないんですか?」

「息抜きかー、それはね・・・」


 なんだろうと考えて、目をゆっくりと開けて、真上にある灯りを見つめた。


「こうして家とか、学校とか、あと街中とかで自然と過ごしてる人を見る事かな」


 少し間を開けても、隣からは何も聞こえてこないので、説明する為に話を続けた。


「時が巻き戻らないように、同じ日々は二度とこない。退屈で似たような日々でも、その影には多くの事柄が絡み合って成立してる。さっき食べたご飯が美味しいと感じたなら、それは私がそう思ってもらえるように工夫して作ったからで、使った食材は、誰かに食べて喜んでもらえるように、誰かが汗を流して作ったもので、食材になったものたちは、精一杯生きて私たちの元へと届いている」


 横を向いてノアを見上げると、不思議そうな顔をして、静かに、こちらを見ていた。


「そして、美味しいって食べてくれる人がいてくれるから、私は明日も料理をする」


 循環とはまた違った、社会の仕組み。そのどれかが崩れれば、他の物も崩れていく、そんな不安定な社会で、私たちは生きている。


「だからね、疲れている人がいれば、私も頑張らないとって思うし、幸せそうな人がいれば、今はきっと上手くいってる。それだけで、私は十分かな」


 それ以上は贅沢だし、望んでいるわけじゃない。日々の幸せを噛み締めて、私もその一部に貢献してる。それだけで、私は満たされる。


「なんだか、難しいです・・・」

「あはは、考えるんじゃなくて、感じることだから。つまりえーっと、みんなの幸せは私の幸せ、みたいな」

 

 自分で言っていて可笑しくなる。

 ポエムとか、浮かれてる人みたいで違うなと感じるけど、簡単な言葉で表現するとそんな感じなのかな。


 のそのそと、ノアが私の近くに寄ってくる。

座ったまま、足を引きずって近づいて、隣にまでくると、手を床につけて、頭を下げ、私の目をまっすぐに覗き込んだ。


 パラパラと、さっきとかした長い髪がカーテンのように垂れ下がり、私の顔に影を落とした。


「なら、やっぱり会いに行くべきです」

「それはどうして?」

「だって、お姉ちゃんと会えたらその人は喜ぶと思いますし、喜んでいるその人を見たら、お姉ちゃんも嬉しいんじゃないですか?」


 話してくれていることが、私にとけていく。

 でもそれより、綺麗だなって思った。


 ヘアブラシで髪をといてあげたからかな。

 艶やかな髪に天井からの光が反射して、キラキラしていて、それで、優しい表情だと思った。


 逆光で、影がかかってるのに、どうしてか眩しく見えて、自然と惹かれて、意識がとけるように吸い込まれる。


 一つの事を中心に、まるで世界が調律されていくみたいに雑音が消えて、のまれていく。


 これと似た感覚を、ずっと昔にも感じたような気がした。

 まだあの人が隣にいて、私を引っ張ってくれて、あの仄暗い場所で光を見せてくれて、憧れて・・・でも届かなくて、手を伸ばして、


「きれいだね」


 そう、言う事が出来たら・・・よかったのに・・・


「どうしたの・・・ですか?」


 気が付くと、ノアの髪に手を伸ばしていた。

 手を動かすと、サラサラと逃れるように手の間からすり抜けて、くすぐったいその感覚を手のひらで感じながら、腕を布団の上へと下ろした。


「なんでもない・・・・・・少し、昔を思い出してただけだよ」


 手の甲で目元を抑えると、服のポケットにしまっていた携帯が鳴った。


 仕方なく、携帯を取り出して画面をみると、あかりからメッセージが届いていた。


「友達からですか?」

「そう。実はさっき電話してきた。今から考えても大丈夫かって」


 え゙、と訛った声が聞こえた。


「そしたら日程を仮で決めて送るから参考にしてみてって言われて、今届いた。あ、もう一人の子も来るって言ってるみたい」

 

 よ、っと声を出して半分くらい眠っているような体を起こして、背筋を伸ばす。


 何もせず、画面をみていると、ノアに話しかけられた。


「会いに、行かないんですか?」


「そうだね・・・、さっきまでは悩んでたけど今は、会いたいかな」


 自然と、無理なくそう思える。


「行ってきてもいい?」


 ノアにそう尋ねると、


「わたしが決める事ではないので」


 と言われて、画面に向き直る。

 

 楽しい事が待っているはず。でも、一方で辛い思いや、寂しい思いも待っていて。

 それらを天秤にかけて、携帯を操作して灯からのメッセージに返信をした。

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