『ふか』い跡は『きれつ』になって 5-

 二度目のお昼ご飯のあと、わたしは部屋にある姉ちゃんの本棚をながめていました。


 あの人の事を少しでも知りたいと思ったことと、ここにある本を読めれば、少しでもあの人に近づける、そう思ったからです。


 試しに何冊か読めそうな本を手に取って、二人で組み立てた、わたしの机に向かい、それらを読み始めたのですが⋯⋯


「わかりません⋯⋯」

 

 学校の教科書なんて比べ物にならないくらい、難しかったのです。


 辞書を読んでいる感覚に近いのでしょうか。

 文章のほとんどが読み慣れず。単語の羅列られつのようで、つながりが極端きょくたんでいて頭に入ってきません。


 そもそも専門的な言葉が多すぎて、まともに読み進めることすらできませんでした。


 それでも諦めきれなくて、わかる部分だけをなぞって、無理矢理にでも進めました。


 夢中、とは少し違いました。どちらかといえば、意地なのでしょう。


 前に進みたい、あの人のように、そうでありたい。


 そのような思いが意地となって、無理をしているのに、集中して読み進めました。


 学校の勉強でも、ここまで真剣になった事はありません。


 短時間の間に何度も手が止まり、頭が文字を拒否ひょひしても、その度に強く目を閉じて、少し落ち着くとまた、本に視線を戻しました。


 そんな事を繰り返していると、気づけば日が傾いて、机の上にも影がかかっていました。

 

 むずかしー、と愚痴をこぼしながら手を伸ばして机に伏せました。

 考えすぎて、沸騰ふっとうしたかのように熱を持っていた頭に、少しひんやりとした机の板が当たって、気持ちよかったです。


 この机を、わたしはすっかり気に入っていました。

 組み立てたときに、わたしも手伝ったからなのか、それともお姉ちゃんとお揃いだからか、理由はたくさんあって、その上に買ってもらった自分の文房具を並べると、さらに愛着はますのでした。

 

 すりすりと机にほほを擦り付けて、凝り固まった頭の中をほぐし、そのまま横を向いてお姉ちゃんの机をみました。


 よくこの本たちと向き合えると、あらためてお姉ちゃんの凄さに感心し、自信を無くします。

 わたしには、大人になっても無理そうです。


 一体いつから、いえ、どのように勉強すればこれらの内容を理解する事ができるのでしょうか。


 そもそもこれらの本は、いったい何なのでしょうか。


 なぜここまで専門的な、精神とか心とかが書かれている本を集めたのでしょうか? 


 どうしてお姉ちゃんは、これらの本を理解しようとしているのでしょうか?


 そもそも、この本は一体誰のものなのでしょうか?


 謎は謎を呼びました。 


 けれど、その答えがわかるほど、わたしは大人ではないですし、お姉ちゃんのことを知りません。


 体を起こして、椅子から立ち上がり、歩いてお姉ちゃんの机の前に行きました。


 窓からの光は心許こころもとなく、机のほとんどは影で覆われていて、そのせいなのか、お姉ちゃんの机の上は寂しく感じました。


 卓上の本棚には学校で使う教科書やノートしかなくて、筆記用具もそのほとんどが無地で味気なく、おそらく百円ショップとかでまとめて売られているものでしょう。


 わたしの机と比べても、わたしの机の方が賑やかで、お姉ちゃんの机の方が寂しい。


 そう思った時に、この部屋に初めて通された時の事が脳裏をよぎり、目を見開きました。

 

 あの時は緊張のあまり気にする余裕がありませんでしたが、今思い返すと変です。

 

 ここはお姉ちゃんの部屋で、おそらくずっと過ごしてきたはずなのに、それなのにこの部屋には、机と椅子とあの本棚以外、何もなかったのです。


 初めて入ったこの部屋は、カーペットは敷いてなくて、窓にはカーテンがなく午後の日差しが強く降り注いでいて、あのカラフルな衣装ケースも、その上に置いてある水色の可愛い時計も、ここにくる前にお姉ちゃんのお母さんと一緒に買ったもので⋯⋯それなら、


「それなら、お姉ちゃんのものって⋯⋯なに?」


 背筋に寒気を感じました。


 最近では物を出来るだけ保有しない人も多いと聞いた事はあったのですが、さすがに度が過ぎるような気がしました。

 

 カーテンもなしに、着替えはどうしていたのでしょうか? ここは二階ですが、おそらく外からでもこの部屋の中はみえてしまいます。


 カーペットもなしに、冬は床が冷たいのではないのでしょうか? このかたい床に、直に布団を敷いて、いつも寝ていたのでしょうか?


 そもそもあの人の好きなものは? 趣味のものとか、家族や友達との写真とか、思い出のものとか、そういった生きてきたなかで出会い、作られるものがどうしてこの部屋には何もないのでしょう?


 できの悪い頭で考えながら、目を大きく揺らして机の上を見渡しました。


 どうして今まで気が付かなかったのでしょう。この部屋にはわたし以外の⋯⋯そう、お姉ちゃん自身の生活感がないのです。


『わかってしまったら、ここに残す必要はないから』

 

 確か、お姉ちゃんはあの本棚をみながらそう言いました。

 その事が示す先を、無知なわたしは想像することができません。ですが、どうしてかその先を考えると恐怖や悲しみといった暗い感情につきあたるのです。


 唇を強く引き締めました。怖くなって、それを否定するために、安物のシャープペンシルや、本棚に置かれた教科書の背に触れながら、数少ないお姉ちゃんの痕跡こんせき辿たどっていると、ある一冊の本に手が触れました。


 黒い革でできた、ブックカバーをした本。

 お姉ちゃんが一人の時に、よく手にしている本で、おそらくこの机の上で、唯一学校と関係のない物です。

 

 ゆっくりと、その吸い込まれるような真っ黒い本を手に取りました。

 見た目の黒色のように、ひんやりとしていて、どこか重く感じられるその本を、恐る恐る開いてみると、見出しに真っ白なページがあって、そこに、


“あなたが誰かを教え、導くとき、あなたは何を目指し、どこへ向かっていますか?”


 と、一文だけが書いてありました。


 詩的で、あまりピンと来ない、まるで何かの勧誘かんゆうのような文章に頭を曇らせながら、その先のページへと、指を走らせます。


 やはりと言うか、本棚にある本と同じ、専門的な本だと言う事はすぐにわかりました。内容は精神とかではなく、おそらく教育に関するもの、のような気がします。


 難しいページは理解できないので軽く目を通して飛ばし、どんどんページをめくっていると、それに気がつきました。


 最後のページが破かれていたのです。


 切れ端が残るような乱暴な方法で、あいだではなく、ここだけを意図的に破いた。

 おそらく、著者の事が書いてある場所を。


 本を閉じ、黒い革のブックカバーを外して表紙を確認しました。

 

 すると、


早瀬はやせ⋯⋯ようぞう葉蔵⋯⋯」


 著者の部分に、そう記載されていました。


 早瀬ってもしかして、そう思ったときです、玄関の方から、


「ただいまー」


 とお姉ちゃんの声がしました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る