『ふか』い跡は『きれつ』になって 5-4
とっさに息を潜めました。
返事をしなきゃ、おかえりって言わなきゃと心は訴えていましたが、その前にする事がありました。
黒革のブックカバーを再び本につけて、元あった場所へと戻しました。
きっと、これはわたしが触れてはいけないものだったのです。部外者である、わたしが。
目を閉じて、ゆっくりと呼吸して、心をいつものように振る舞います。
そうやって偽るのは、ここにくる前に覚えたのですから。
目を開けて、部屋の外へと出るとそこには誰もいなくて、いつもご飯を食べる部屋に灯りがついているのを見て、そちらへ向かいました。
扉を開けて部屋に入ると、冷蔵庫の前にお姉ちゃんはいました。きっと、今から夜ご飯を作ってくれるのでしょう。
「おかえりなさい」
できるだけ、平静を
「うん、ただいま」
お姉ちゃんはこちらを少し振り向いて、やさしく微笑んだあと再び冷蔵庫の方を向きました。
すとすとと近づいていくと、テーブルの上にいくつもの袋が置いてあって、どんな物を買ってきたのか自然と興味を引きました。
「たくさん袋がありますね」
「ねえ、ノアちゃん」
タイミングよく声が重なって、驚き、一瞬だけですが、
そんな必要はないはずなのに、この人がやさしい事は身に沁みて知っているのに、その一瞬だけ、どうしようもなく怖かったのです。
ですが、お姉ちゃんはすぐに微笑んで、楽しそうに話し始めたのでわたしも気を持ち直し、平然と振る舞いました。
お姉ちゃんはいつもよりも楽しそうに話していて、でも、どこか疲れが見えた気がしたので、休んではと提案しましたが、大丈夫と言われてしまって、それならば手伝いますかと言うと、待っててと付け加えられました。
眉を寄せて、下を向きました。確かに、わたしはお姉ちゃんのように色々はできませんが、それでも力になりたかったのです。
そんなしょげたわたしに、お姉ちゃんは何かを感じたのか、荷物を持っていって欲しいと、わたしに頼みました。
とっさに顔を上げて、返事を返しました。
些細な頼み事でしたが、それでもうれしかったのです。
すぐにテーブルの上にある頼まれた荷物に目を向けました。大きい袋と言われたので、並べられた袋の中で、一つだけ抜き出て大き物へと手を伸ばし持ち上げました。
重いかなと思って手にした一メートルほどの袋は、想像と違ってとても軽かったです。
「軽いですね。何が入っているのですか?」
中身が気になって自然と、そう訊ねていました。
「開けてみて」
そのやさしげな一言にうなずいて、少し緊張しながら袋を閉じていたテープを切って中を覗きました。
「これは、ぬいぐるみですか?」
中にはデフォルメされた青色のかわいいサメが入っていました。
袋から出して、直接手に手にしてみると、ふかふかとして柔らかくて、肌触りも良かったです。
どうしてこれを? と
「ノアちゃんに、お土産……みたいな?」
お姉ちゃんの気恥ずかしそうな言葉を聞いて、すーっと、わたしから何かが抜けていきました。
“お土産”というその些細な一言が、どうしてかわたしを動揺させたのです。
しだいに呼吸は止まって、頭の中が真っ白になりました。
わからなかったのです。どういった意図があるのか。このかわいいぬいぐるみを頂くことで、わたしはどうなればいいのかが。
ふらつきそうになる体を、いつも以上に足に力を入れることでどうにか支えて、やわらかいサメを持ちながら、考えました。
お姉ちゃんの話す声がしますが、声が遠くてよく聞き取れません。だから近づこうとして、一歩前に踏み出そうとした時に、不意に思ってしました。
また、あまえてると。
あまえちゃダメだと、それは他の人にも負担をかけてしまうからと、いつも自分に言い聞かせてるのに、弱いわたしは無意識にそれを選ぼうとしています。
だから⋯⋯買ってきてくれたのでしょうか?
一人では寝ることすら出来ないわたしを見兼ねて、買ってきてくれたのでしょうか。
だとしたら頑張らないと、もっと、もっと、期待をされているのなら、もっと、
「これで、頑張れって、事ですよね?」
息が苦しくて、振り絞った声は潰れていました。
耳が痛くて、ずっと鳴ってて、何も聞こえなくて、自分の声すらよく聞き取れませんでした。
「これで頑張れって。一人でも、寝られるように頑張れって、そう言う事ですよね」
もう一度確かめるように、今度は事細かに唱えました。
この人の居場所に、わたしは間借りしている。
本来なら、わたしはここにいなくて、この人もわたしに時間や手間を割く必要もなくて、いるだけで負担をかけてしまっている。
できる、できます。きっと、いやぜったいに。
決意もできて、そこまで難しいことではないのに、そのはずなのに⋯⋯⋯どうしてか胸が締め付けられるように痛かったです。
「大丈夫です⋯⋯できますから、きっと、そうですよね?」
すがるように、そう
「違くて」
思っていたような言葉は返ってきませんでした。
息を呑んで顔を上げると、お姉ちゃんは頭を抑えて、ふらつきながらこちらへと手を伸ばしていました。
違う、のでしょうか?
無理なの、でしょうか?
そんなことないと、できるって自分で言って証明すべきなのに、歩み寄って、手を差し伸べようとしてくれるこの人に対して、
「来ないでください!!」
と目を閉じて、叫びました。
無意識に今まで出したことがないくらい大きな声が出て、自分でも驚いて怯み、顔をあげて、目の前にいるお姉ちゃんの顔をみて、自分のしでかした事を深く実感しました。
ぼと、と小さな音を立てて、ぬいぐるみが床に落ちました。しっかりと持っていたはずなのに、いつ離してしまったのでしょうか。それすらもわからなくて、行き場のなくなった手は、ただ
「ごめん、なさい。わたし、そうじゃなくて、わたし………」
何からすればいいのでしょう。
平然を装っていた心はとうに崩れて、焦りと恐怖が支配しています。
冷静な判断などできるはずもなく、しなくちゃいけない事、目を見開いてこちらを見つめるこの人に、わたしは何て言ったらいいのか分からなくて、
「ごめんなさい……!」
そう言い残して、その場から逃げ出しました。
勢いのままドアを開けて、靴も履かずに外へ出て、階段でつまずき手すりに捕まって、そのまま崩れました。
勢いで飛び出した外は、先ほどまでいた空間と違い、冷たかったです。
コンクリートの階段も、鉄でできた手すりも、外の空気すらも冷たくて、まるで世界の全てがわたしを拒絶しているようで、それらから逃げたくて立ちあがろうと足に力をいれると、またすぐにその場に崩れました。
逃げる場所なんてないのです。
母が亡くなってから行く場所なんてなくて、どんな場所に行ってもそこは一時的な休息点でしかなくて、それらを連たった先でようやく辿り着けたのがここなのです。
「かえりたいっ……」
もう、そんな場所は無くなってしまったのに。
「あいたい………」
もう、会えないと分かっているのに。
「ごめんなさい………」
行く宛のない謝罪なんて、自己満足でしかないと理解してるのに。
喉に力を入れて、叫び出したい感情を必死に押し殺しました。
肺を出て声になり損ねた空気たちは、痛みを放つ気管を通って掠れた音をたてながら出ていきます。
分かっているのです。これらすべての行為があまえだと、ただ現実から逃げているだけだと。
このままじゃいけないのに、わたしは頑張らなくちゃいけないのに、それがわかっていても、立ち上がる事ができませんでした。
「あれー、ノアちゃんだ」
急に階段の下から当たり障りのない声がしました。聞き覚えのあるその声の方を向くと、
「お母さん」
わたしを引き取ってくれたあの、新しいお母さんがいつもと変わらず優しい表情をして、ただそこに立っていました。
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