回廊 ①
明るくて物静かな部屋の中で、オーブンの低い音だけが響いていた。
オーブンの中では調理された食材を載せた耐熱容器が薄暗いオレンジ色の光で照らされて、焼き上がるのを待っていて、私もそれが終わるのを、ただじっと眺めて待っている。
ずきずきって頭が痛いな。
手で前髪をくしゃくしゃにしながら、そう思った。
結局、私はノアを追いかけなかった。
思ってた以上に長い間立ち上がることができなかったし、追いかけても話せることなんて何もなかった。
理由はどうであれ、あの子を傷つけたことは変わらない事実でしかなくて、何を言ったって、それは言い訳でしかなかった。
焼き上がりを待つのをやめて、先に出来上がった物をテーブルに運んだ。主菜は今オーブンで焼かれてるから、小さなサラダボウルにレタスや刻んだトマトを入れて運んで、人数分の食器を並べようとしたところで手が止まった。
あんな事があったのに、ノアはここで食べたいのだろうか?
余計に辛い思いをさせてしまいそうで、想像するだけで、気が遠くなるくらい苦しくなる。
こんな時ってどうすればいいのだろうか。昔の記憶を思い返しても、いい答えが浮かんでこない。
ずっと後悔している先生との出来事は、あの頃から逃げ出したままだ。
あーもう嫌だな。結局またこうなっている。
色々と勉強してきたけど、実際の経験なんてまだまだ足りなくて、努力の成果の料理を、今は感情の吐口にしている。
こんな物、ただ虚しいだけなのに。
料理を眺めながらそう思っていると、玄関が開く音がした。
ハッと目を見開いて、急な現実に慌てふためく。どうやって謝ればいいのか、大急ぎで準備して、段々と大きくなる足音に自然と背筋が伸びて、耳を傾けた。
心臓が強く鼓動する。
凝視していた扉が開いて、そこから現れたのは、
「やっほー、ただいまー真惟」
いつもの変わらない、当たり障りのない母がそこにいた。
「はー……おかえりなさい。母さん」
「え? なあにその返事。もしかして、ノアちゃんだと思った?」
「うん、まあ」
姿勢を崩して、目を逸らす。
そう訊いてくるという事は、ノアとはもう会ったのだろう。
「心配しいてるなら大丈夫よ。そこであって、少し外でお話ししてから一緒に帰ってきたから」
「本当?」
「ええ、いっしょに帰ってきたわ」
帰ってきた。そう言われて、はー、と胸を撫で下ろす。どこか遠くへ行ったわけではくて安心して、同時に心のどこかでほっとしている自分に嫌気がさした。
「心配なら、あいにいったら?」
母からの問いかけに少し怯んで、一度考えてから口を開いた。
「今は……ちょっと合わせる顔がないかも」
会いたくないわけじゃないけど、やっぱりどこか掛ける言葉が思い浮かばなかった。
「そう。ノアちゃんも同じこと言ってたし、ご飯作ってからでいいんじゃない」
「うん」
「いい匂いね、グラタン?」
「そう、今日輸入食品の店で良さそうなホワイトソースとチーズを見つけたから」
「へー暖まりそう。もう少しでできるの?」
「うん、あと五分くらいかな」
なら待ってよっかな、と母はテーブルに向かって歩いて何事もないかのように座り、手にしていた自身のタブレット端末を操作し眺めた。
私も、そんな平然とした母にときおり視線を向けながら、夕食の準備を進めた。
「別にそこまでしなくても大丈夫だと思うけど」
出来上がった料理をトレーに載せていると、母にそう言われた。
「そんなの、わかんないじゃん」
「あっそう。気にしすぎだと思うけど、まあ好きにしなさい」
呆れ混じりに母はそう言って、またタブレットに視線を戻す。
そんな母を遠目から睨んだ。言われなくても、私は好きなようにやる。ただ、今はそれが不安で自信がないだけだ。
料理を載せたトレーを手に持ち、廊下を歩いて部屋に入ろうとノックをしようとすると、視界の隅に母が手を振っているのが見えた。 何? と思って振り向くと、なぜか母は私の後ろの扉を指差した。
理由もわからず、後ろを向いて目の前にある脱衣所のドアをノックすると、中でカサカサともの音がした。どうやらノアは部屋ではなく脱衣所にいるらしい。理由は……わからないけど。
「………ノアちゃん。えっと……ご飯できたんだけど、その、持ってきたから、ここに置いておくよ」
返事はなくて、今度は物音一つ返ってこなかった。
息を吐いて、その場に置こうとすると、扉が開いて、その隙間から下を向いたノアが見えた。
「食べます………」
途切れそうなか細い声に頷いて、トレーを差し出すとノアは頭を大きく横に振った。
「いっしょにっ、食べます」
誰も話さず、かちゃかちゃと食器がなる音だけが食卓に響いていた。
母だけが笑顔で食べていて、私とノアは表情をあまり動かさず、たまにカチっと目線があっては気まずくなって下を向いた。
口に入れた物の味がわからなかった。
多分、マカロニだと思うふにゃふにゃとした食感の物が、ホワイトソースとチーズに絡まりながら、舌の上で踊っている。
ちゃんと美味しく出来ているのだろうか。
そんな不安が全身を支配し始めると、母が急に口を開いた。
「あ、そうだ。ノアちゃんにお願いがあるのだけど」
「なんですか?」
「明日から学校でしょ? 流石に歩いて行くには遠いし、毎日送り迎えも難しいから、バスで行ってほしいのだけど」
母からの突然の要求に、え……、と重みを含んだ返事が聞こえた。
「不安? でも大丈夫。真惟もいっしょだから」
へ? と母の自然な言葉の中に自分の名前が登場して、顔を上げる。
「それってどういうこと?」
「どういう事って、ノアちゃんの通ってる学校、あなたが通ってる高校の目の前だから。はい、バスの料金。あなたに預けるわね」
言っている言葉を頭では理解していながらも、戸惑いを隠す事が出来ないまま母から差し出されたお金を受け取る。
やっぱりこうなるんだ。そう、心のどこかが告げていた。
母は本当に何も説明してくれなくて、知った時にはすでに私たちには断る時間も与えられていない。
その事について、ノアはどう思い受け取っているのかと気になって、視線を向けると。彼女は手を下げて、どこか悩んだように下を向いて、ただ動かず、そこに座っていた。
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