回廊 ②

「怒らないのね」


 二人よりも先に食べ終えて、台所で後片付けをしていると、母に訊ねられた。


「別に。なんとなくだけど、そんな気がしてたから」

「そう。ノアちゃんの担任の先生とは今日話してきたから、学校が終わったら迎えに行ってあげて」

「うん」

「あと、あなたからも向こうの先生に挨拶しておいて。結構、無理を言っちゃったから」

「わかった」


 少ない要求を少ない言葉で片付けると、もう言い残した事はないのか母は去って、次にノアが食器を持って台所にやってきた。


「すみません。バスでの通学まで……」


 ノアはとぼとぼと、心もとない足取りで歩いてきて、下を向いたまま話しかけられた。その手から食器を受け取って、流しに置いた。


「気にしないで。もともと前からそうしたいとは、思ってたから。その為にバイトしようかとか、考えてたし」


 学校までは自転車で通っていたけど、夏とか暑いし、通学にかかる時間が多くて嫌だとは思っていた。

 でも公共交通機関を使うとなるとその分お金もかかるし、かといってバイトに使う時間も余計にかかると思ったら、結局はまた自転車に落ち着いた。


「だから、本当に気にしなくていいよ」


 そう伝えてもノアは顔をあげてくれなくて、下を向いたままだった。

 どうすればいいのか、ずっと考えて、まとまりそうで、まとまらなくて、息にして出そうとしたところをまた飲み込む。


 初めて会った時も、こんな感じだったのかな。多分、その時も話す言葉に詰まってなにも言い出せなかった気がする。まだ出会って数日なのに遠く感じて、ぼやけてる。


 頭が痛いな。もうもうと狭くなって行く視線につられるように、そう思った。


「あの……!」


 ぼーっとしていたら、霧がかかった頭を晴らすかのように、ノアの声が響いた。

 しっかりと前を見ると、いつの間にかノアは顔をあげ、その強い視線を向けて、私を見ていた。


「あの…! お、お……」


 何かを言おうとして、言葉に詰まって、必死に肩を揺らしているノアを見て、私も身構える。


「お風呂から出たら………今日はそのまま寝ます………」


 あ、そんな事か。


「あーうん。明日は授業もないから準備することもないし、先に電気も消してていいよ」


 そう言うと、ノア頷いてから背中を向けて、来た時とは違った意味で落ち込んだように歩いていった。

 

 その背中に、何か声をかけたいと思っては、まとまらなくて結局何もせずに、その背中を見送って、扉が閉まってからも名残惜しく眺め続けた。


「悩んでるわね」


 意識の外から、まだこの部屋に残っていた母に話しかけられた。


「まあ、ね」


 いろいろと頭がごちゃごちゃしてて、今なら誰が見ても、そう見えるのだろう。


「お茶を淹れてくれる? 少し話しましょう」





「それで、どうして追いかけなかったの?」


 回り道のない単刀直入な問いかけに、真っ直ぐに向きあった。


「立てなかった」

「それだけ?」

「それだけ」


 そう、と母は納得したようで、静かにコップの中を眺めていた。


「昼間は楽しかった?」

「何? いきなり」

「会いに行ったんでしょ? 灯ちゃんと潮音ちゃんに。あなたがお友達とお出かけするなんて滅多にない事だから、どうだったのかなぁって」

「楽しかったよ」

「本当に?」

「本当に」

「そっかー」


 母はまるで安心したかのように、ヘラヘラと笑みを浮かべて、椅子の背もたれに体を任せた。何を考えているのか、こちらには目もくれず、ただ天井を見上げている母に声をかけた。


「今日は二人と外食をしたんだ」


 へ、と驚いたように母が反応して、目を見開いてこちらを向いた。


「本当に? あなたが外食なんて、何かあったの?」

「たいした理由じゃないよ。ただ、お昼を作ってたらノアちゃんに『早く行って』って追い出されちゃっただけ」

「あはは、そうなんだ。何だか想像できるわ」

「ね、それで待ち合わせより三十分も早く着いちゃって、退屈だったなあ。けど、そのおかげか今日は楽しめたよ」


 有意義に、いろいろ考えることが出来て、それでいて楽しかったと、そう思う。けど、


「最後の最後で、羽目を外し過ぎちゃったかな」


 よくニュースで見かけるような、お酒に酔った大人のように、あの時の私もその場の雰囲気にのまれてどうかしてたんだ。


「そんな事ないわ。きっとタイミングが悪かっただけよ」

 

 励ますように、母はいつになく優しい言葉をかけてくれて、確かにそうとも思ったけど、でも、


「それだけじゃなくて」


 その他にも引っかかってる事があった。


「今朝、ノアちゃんに追い出される前にね。二人分のお昼ご飯を作ったんだ」


 不安を言葉にして話し出すと、母は何も言わず、真面目な表情を浮かべて、その目を見ながら話を進めた。


「それで、家に帰ってきてから、夜ご飯を作ろうとして冷蔵庫を開けたらね、それが全部無くなってた。ただノアちゃんが大食いなだけだって、そう思えたらいいのに、でも、もし違ったら? もしかして、吐いちゃってたら? そうだとしたら、どうしたらよかったんだろうって」


 言葉にした途端、不安が溢れた。

 ノアが大変なのは、彼女の頑張っている姿を見ていればわかる。


「ノアちゃんはあなたの料理をおいしいって食べてくれたでしょう? きっとそれは嘘じゃないわ。それに、あなたが思い、考えてくれている事もちゃんと伝わってると思う。だからこそ、今朝送り出してくれたんでしょう?」

「わかってる」


 手を強く握って、下を向く。

 そんな事は言われなくたって理解していて、だこらこそ、どうすればいいのか分からない自分が悔しかった。


「あれね、あなたが買ってきたぬいぐるみって」


 少し顔をあげると、母は横を向いて、部屋の隅に置いておいたサメのぬいぐるみを見ていた。


「ノアちゃんから訊いてたけど、ほんと大きいわね。懐かしいわ、確かあなたが幼い頃に、いつもあんなのを抱いて寝てたのを憶えてる。確かあれは………」


「捨てたよ」


 一言、つよく言い放った。

 これ以上、母からその話題を聞きたくなくて、話題を止めるにはその一言だけで十分だったのに、


「ずっと前に、、捨てたよ」


 気持ちをぶつけるように、余計な言葉を私は添えた。


「……そうだったわね……ごめんなさい」


 視線を逸らし、肩を下げた母から逃げるように、目を閉じた。


 まただ、どうしてまた、あたってしまうんだろう。母さんは悪くないのに。


「ごめん、私も疲れてるみたい。今日はもう、お風呂入って寝るね」


 椅子を引いて、静かに立ち上がり、そのままダイニングを出ようとして扉の前で立ち止まって、振り返る。


「ねえ、最後に一つ聞いてもいい?」

「ええ」

「“あの人”なら、もっと上手くやれるかな?」


 何となく、頭に浮かんだ言葉を口にする。多分、答えが欲しかったのと、単純に叱って否定して欲しかったんだと思う。


「真惟、もういない人と比べるはやめなさい。それに、だなんて、多分あなたにだけはそう呼ばれたくないはずよ」


 けど、そのどちらも母は与えてくれなくて、少し間を置いてから、私は口を開いた。


「そうだよね、ごめん。おやすみ、母さん」

「ええ、おやすみ真惟」


 言葉にならない空気の中、無理に笑顔を作って、私は部屋を後にした。


 少しは気分を晴らしてくれるかと期待していたお風呂は、あたたかいだけで何一つ流してはくれなかった。

 



 部屋に戻ると中は真っ暗で、音を立てないように扉を閉める。

 廊下からの光が無くなると、思いの外窓からの月明かりが明るくて、それを頼りに足を進め、やがて布団の元までたどり着くと、息がこぼれた。


 昨日までと違って、敷かれた二組の布団の間には人一人分くらいの隙間があって、それが越えることのできない、深い亀裂のように見えた。


 仕方のない事と、頭の中で片付けて布団に入る。

 

 布団が冷たい。誰も入っていなかったのだから冷たいのは当たり前で、それは昨日までだって同じはずなのに、今日は一段と冷たく感じた。


 体を揺らして少し布団を温めてから横を向き隣の布団を視界に入れると、膨れ上がった布団の端から長い髪の毛が見えた。


 ノアはそこにいる。


 布団を深く被っているようで、寝ているのか、それとも起きているのかわからないけど、ちゃんとそこにいる。


 出て行った訳ではないと、その事だけを、今は幸いとして受け入れる。


 布団から手を出して、そのままノアの方へと伸ばし、届かなくて、冷たい床に手を垂らす。

 

 その無意味な行為を馬鹿らしいと感じながらも、目を閉じた。


 頭が痛くて、ずっとごちゃごちゃと鳴っているのに、どうしてか目を閉じた途端に意識だけが遠く離れて行った。

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