消せない罪

早瀬はやせ先生。今日はありがとうございました」


 長テーブルを挟み、向かいの席に座った女の子が、瞳に迷いと悲しみを残したまま、静かに微笑んだ。


「そんなにかしこまらないで、私は話を聴いただけなんだから」


 落ち着かせるように、頬を緩めて、優しく話しかける。感謝なんてする必要はない。それが仕事だし、まだそれは終わっていない。


 でも確かに、今日のところはここまでだと感じた。こちらが焦っても何も変わらないし、仕方がない。本当にいい結果を導きたければ、待つことだって重要だ。


「また何か聴いてほしいことがあれば、気軽に話してね。何でもいいわよ。それこそ些細な、今日可愛い猫がいましたー、とか。あ、テストで赤点取っちゃいましたー、とかでも」


 ちゃらけて言うと、場が和む。この子もくすくすと笑い、赤点なんて取りませんよ、と言うと改まってお礼を言って、この部屋を後にした。


 閉じた戸を見つめながら、もう、こなくてもいいようになって欲しい、と静かに祈り願う。早く元気になって、私の事なんてさっさと忘れ去って欲しい。そう望んでいるし、そうなれたら、本当に嬉しい。


 ここになんて、誰も来なければいい。そう思い、仕事を始めて何年が経ったのだろう。色々あった。初めは怒られたし、いろんな人と対立もした。そのうち、仕事なんて回ってこなくなるんじゃないかと思ってもいた。でも、まだ私はこうして仕事をしている。不思議な事に、辞める気だってなかった。


 手元に置いた診療録しんりょうろくを身に染みてしまった手つきでまとめると、鞄から紅茶を淹れた小さな水筒を取り出して、口にした。


 目を閉じて、口にした途端、乾燥された青臭い雑草のような匂いが口の中に広がる。飲み込もうとして、あまりの不味さに、顔を引きり、そのまま部屋の隅に設置された小さな流しに吐き出した。


 いつもの事、まただった。何度試しても、不味く感じる。


 昔はこれが好きだった。

 お店の中で、何時間もかけて色々試して、やっと好みを見つけたのに、そんな思い出が嘘かのように、いつの間にか嫌いになっていた。


 その事実が、どうしても受け入れられなくて、時折こうしてこっそりと水筒に淹れてきては、惨敗していた。


 あの子のおかげで、コーヒーも好きになれたし、もう諦めてしまえばいいのに、そう思っていても、過去にすがってしまう。


 自分の情けなさに、深く息を吐くと、再び椅子に座って仕事に向き合った。

 

 休んでばかりはいられない。先週は何日か休んでしまったから、仕事は山のようにある。これが終わったら、先生方へむけた講習会の資料も作らなきゃいけない。


 生き続けて、責任が増すたびに、初期の予想に反して仕事は増えていく。それが歳をとるということで。そうでなければこの社会の仕組みがずれてしまっている、とは感じている。


 いつだって、責任を取るのは上の役目だ。もちろん、責任の形は多様だから、一概にこれだとは言い切れないけど、そうでなければ、未来なんて守れない。


『未来は振り向かない。振り返るとすれば、それはもう過去である』


『未来は止まらない。止まるとすれば、それはもう現在である』

 

『だから我々は変化を恐れず、未来に立ち向かわなければいけない。それがどんなに辛くても、過去はすでに過去でしかなく、生とは未来にしかないのだから』

 

 

 昔に聞いた馬鹿らしい言葉が頭の中で繰り返し、響く。あの人はよくも恥ずかしげもなく、革命家みたいな言葉を口にしたものだ。


 あなたはいつだって、当たり障りのない優しさで多くの人を包み込み。野心家のように、強い意志を内に秘め、多くの人を未来へと導いた。


 どんな時でも未来と向き合い、奮闘していた。そんなあなたを、愛していた。


 ねえ、あなたはには、今の私がどう見える?

 もし今ここにいたら、「いきなよ」て背中を押すのかしら?


 でもね。私はもう、前には進めない。進むことができない。


 先へと歩むには、多くの物を背負い過ぎてしまった。再び進むためには、何かを切り離すしかない。でも、そんな事はできないくらい、この責任に深くしがみついてしまった。


 私は歩みを止めた。そして、後ろを向き、まだ芽吹いたばかりの未来へと手を差し伸べる事を選んだ。


 これは正しいのか。それとも逃げだったのか。それを知るには、まだ道半ばで、先はまだ真っ暗で何も見えない。でも、迷いはなかった。これがしたい事なのだと、今はしっかりと思えていた。


 一通りの準備を終えると、意識をテーブルのすみに置かれた自分の携帯にむけて、遠くにいる、あの子の事を思い浮かべる。


 今頃、あの子は出会ったのだろうか。


 出会ったとしたら、何を思ったのだろうか。

 

 想像はできない。確かに、あの出来事よって、あの子が苦しんでいることも、それがかせになっていることも知っている。


 もっといい方法があったはずだ。

 かける言葉も、もっとあの子に寄り添ってあげればよかった。そう頭ではわかっていても、いつも出来なかった。


 けれど、そんな私と違って、あの子は責める訳でも、否定する訳でもなく、私に寄り添おうとするのだ。まるでそれが当たり前かのように、何も訊かずに………ただ、寄り添おうと。


 昔と違って、あの子は強くなった。

 まだ迷いは多いけど、ちゃんと自分の意志で動けるようになった。


 歳を重ねるたびに子どもは離れて行く。親が肩代わりしていた責任を、成長と共に少しずつ返して、いつかは親元を巣立つ。


 それを寂しいと感じるか、それとも頼もしいと感じるかは人それぞれだ。私はずいぶん昔に、考えるのをやめてしまった。


 それなのに、私は身勝手だ。


 約束があったとはいえ、勝手に人の子を引き取ったのも。その子に合わせて環境を変えたのも。その全てを、あの子に背負わせたのも。



 

 全ては、私の身勝手で。




 あなたがいなくなってから、私はあの子に恨まれて当然の事をずっと重ねてきた。一緒にいるべき時に、突き放した。


 距離をとった。あなたとの約束を、曲解してまで。


 そんな私を、あなたはおこりますか?


 誰もいない、くうの先へと投げかけた。返事はなく、ただ虚無だけが残る。胸が空っぽで、これが罪悪感だと言うのなら、いっそのこと押しつぶされてしまいたかった。


 罪は消えない。どんなに償おうとも、許されるだけで、無くなったりはしない。罪はどこまだって追いかけてきて、はなしてはくれない。どんなものも平等に、


 それでも………そうだとしても、私はあの子に………

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