仄暗い部屋の隅から

 あたりはすっかり暗くなり、狭くて急なアパートの階段を、心許こころもとない壁に備え付けられた電灯の光と、何年もの生活でつちかった感覚を頼りに上がる。


 部屋が二階なのは、ときに面倒だった。

 

 外を眺めるのにはいいけど、いちいち階段を上り下りなくちゃいけないし、今日みたいに荷物の多い日や、お米のような何キロもある荷物を持って上がるのは大変だった。


 けれど不思議と、今日の足取りは軽かった。


 かさばり、歩くたびに足にぶつかってくる荷物たちに、少しだけわずらわしさを感じながらも、早く帰りたいと思えたおかげか、朝よりも足が動いて気分がいい。

 

 誰かが家にいるのは久しぶりだ。

 

 いつも誰もいない家に、一人で帰る。

 母は私よりも遅い時間に仕事に行くことはあっても、私よりも早くは帰ってこない。


 あの人は昔から仕事に取り憑いているのだ。

 暇があれば仕事して、理由があれば仕事をする。


 仕事がライフサイクルだし、仕事が趣味で、目的で、人生だ。


 そんな、言い方を間違えればダメ人間みたいな人だけど、興味を示したものに対しては真剣で、それでいて熱心で、どこまでも公平な人だ。


 母はある意味では差別をしない。

 理由があれば誰でも優遇ゆうぐうするし、理由があれば誰でも冷遇れいぐうする。


 それは娘である私に対しても同じだ。


 理由があれば接して、無ければ無頓着むとんちゃく


 それでも離れずにずっと一緒に住んでくれているのだから、きっと母なりの理由があるのだと思う。


 理由がなければ、そこにいない。それが私の母なのだから。


 


 扉の前に立って、鞄から鍵を取り出し鍵穴にさしてまわす。 


 何かを期待して、扉を開けると予想に反して、家の中は暗かった。

 手に持った大きな荷物を床に置いた。


「ただいまー」


 と言ってみても、特に返事は返ってこない。


 しん、と静かで、今までと同じ孤独を感じた。


 再び荷物を持ち上げて、廊下を進みダイニングへと向かう。

 先に部屋に寄ろうとも考えたけど、荷物の大半はキッチンに置くものだったから、先にそっちに行きたかった。


 ダイニングに入ると、そこも真っ暗で以前と何一つ変わっていなかった。


 当てが外れたと言うのだろうか、こうなるかもしれないという期待が強かったせいか、その分だけ残念に思えた。

 

 おかえりって、久しぶりに聞きたかったな。


 そう思いはしたけど、遅くなったし、仕方ないと気分を切り替えて、荷物をテーブルの上に置いた。


 もしかしたらまた寝ているのかもしれない。

 それならそれでいい。明日からは学校が始まるから、今はゆっくりしてほしい。


 夕食の準備をしよう、そう思って冷蔵庫の扉に手をかけると、後ろで扉が開く音がした。


「おかえりなさい」


 と声をかけられて振り向くと、朝と変わらない様子のノアが立っていた。寝ていたわけではないらしい。


「うん、ただいま」


 そう言い、近づいてくる足音に耳をかたむけながら冷蔵庫を開けた。

 中を見た瞬間に、あれ? と違和感を感じた。お昼の為に作った料理がない。二人分作ったのに。


「ねえ・・・ノアちゃん?」

「たくさん袋がありますね」


 そうかれてノアの方を向くと、テーブルの上に置いた袋を興味深く見ていた。


「あ、うん。いろいろ買っちゃった」

「行ってみてどうでした?」

「楽しかったよ。ちょっと疲れたけど、それも醍醐味だよね」


 そうでしょと言いたげに、にこにことしているノアに私も微笑んだ。


 何かを聞きたかったはずだけど、すでに頭からは離れていて、それよりも早く夕食の支度をしないといけなかった。


「疲れているなら、いったん休んでからの方がいいんじゃないですか?」

「んー、大丈夫。そこまで大変なのは作らないから」

「何か手伝いますか?」

「ううん、大丈夫だよ。待ってて一時間くらいでできるから」


 そう言うと、少し不満そうな表情をした。待っているのはもう疲れたのかもしれない。


「それじゃぁ・・・その大きな袋を部屋に運んでもらっていい?」

 

 そう言うとノアは、わかりましたと言ってすぐにテーブルの上に置いた袋の中で一番大きなものを手に取った。


「軽いですね、何が入ってるんですか?」

 

 中身がよっぽど気になったのか、袋を目の高さまで持ち上げて凝視した。

 後にしようと思ったんだけど、今でもいいか。


「あけてみて」


 その言葉にノアはうなずいて、袋を床に下ろし、中を覗いた。


「これは、ぬいぐるみですか?」


 そう言いながら、袋の中の物をゆっくりと持ち上げた。


 デフォルメされた、鮮やかな青色をした、大きなサメのぬいぐるみ。


 私が二人にお願いして、最後に寄らせてもらったお店で購入したぬいぐるみで、今日買った物の中で、一番悩んで選ぶのに時間がかかったそれを、いまノアが持っている。


 その姿を見ていたら、急に恥ずかしくなって、台所に視線を戻した。


「そう、んーとノアちゃんに、お土産・・・みたいな?」


 少し違うけど、とっさにそう言ってしまった。


 誰かに贈り物なんて、今までした事がなくて。それでもたくさん悩んで、時間をかけて選んできた。


 それが今、ノアの手元にある事を思うと、なんだか気分が落ち着かなくて、目を向けられなかった。


 よく潮音しおんは平気で漫画を買ってきてくれたなって思う。ほんとう、尊敬する。

 

「えー、っとね」


 目の前に置いてあった菜箸を手に取って、いじりながら頭の中で言いたい事を整理する。ちゃんと説明しないと、どうしてそれを買ってきたのか、それに何の意味があるのかを、ちゃんと伝えないと。


「あーっと、それはね、」

「これで、頑張れってことですよね・・・」


 からからっと、手に持っていた物が床に落ちた音が響いた。


「・・・え?」


 おそるおそる、ノアの顔をみようとしたけど、長い髪に邪魔されて、その表情をみることはできなかった。


「これで、頑張れって。一人でも寝られるようになってと、そう言う事ですよね」


 さっきよりも声が震えていた。


「違うっ、そうじゃなっ」


 弁解をしようとして、声が詰まった。

 本当に違うだろうか?


 寂しがらないでほしいとは思った、でもそれは言い換えれば一人でも大丈夫になって欲しいと言っているのと同じではないのか。


「大丈夫です。できますから、きっと、そうですよね?」


 同意を求めるように強く訊かれて、手に力が入っているのが分かるくらい、持っているぬいぐるみが歪んでいた。


 そうじゃない、そういうつもりじゃなくて、ただ、私は、


「ちがくて、」

「・・・っ!」


 必死に否定し、一歩進踏み込むと、逃れるようにノアも一歩下がった。


 こんな時に、なんて声をかけるべきだろう? 大丈夫? いや何に対して大丈夫なのか、これが大丈夫なわけがない。それじゃ、なんて、


「そうじゃ、なくて、」


 頭の中が必死になって動いているのに、考えがまとまらず、言葉にならない。


 それでも、必死になって、無理やりにも手を伸ばして前に進むと、


「こないでください!!」


 キーンと何かに打たれたかのような衝撃があって、あとずさる。

 頭の中が真っ白になって、思考が止まった。それではいけないってわかっているのに、何もできない。


 はっ、とノアが顔を上げてぬいぐるみを落とした。おびえた表情で、視線を揺らしてあたりを見渡して、両手を口元に当てた。


「ごめん、なさい。わたし、そうじゃなくて、わたし・・・!」


 一歩、また一歩とノアは後ろに下がり、そして、


「ごめんなさい・・・!」


 と強く言い残し、勢いをつけてその場から出ていった。

 何が起こったのか、動き出すために整理しようとしてそれは鳴った。


『でていってください』

 

 そう、脳裏に昔の自分の声が鳴り響いて、胸元をつかみその場に崩れた。


 同じだ。あの時に先生を、初めて他の人を深く傷つけてしまった時と同じ。

 また誰かを傷つけてる。


『人はね、他人を変えられないんだよ』


 また、あのやさしい言葉が頭をよぎる。何度も何度も耳元で囁くように、鳴り響いている。


「うるさい・・・、もうやめてよ・・・!」


 あなたは私を変えてくれたじゃないか。

 見向きもしなかった幼い私に、たくさんの事を話して、教えて、連れて行ってくれて。そこまでしてもらったのに。


 変われない。


「もう、いい加減にしてよぉ・・・」

 

 きっとその言葉はそんな意味じゃない。

 そんな事はわかっているのに、呪いのようにその言葉が鳴り響き、苦しめる。


 ノアを追いかけて、謝らないと、安心させてあげないといけないのに、どうしてもその場から立つ事ができなかった。


 強く奥歯を噛み締めて、頭を近くにあった冷蔵庫になすりつけた。


「もうやめてよ・・・おとうさんっ・・・」

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