『ふか』い跡は『きれつ』になって 5-1

 白く、綺麗でいて、冷たい建物の中にある、暖色のかかった広い部屋のすみに、わたしはいました。


 黒くて少しざらついて、ひんやりとした生地きじの服を着て、今日はじめて会った人に、ここに座っててと言われ、おとなしく言われたとおりに座っていました。


 周りを見渡すと、同じように黒い服を着た大人たちが何人かで固まってお話をしていて、そこにいる誰とも、わたしは会ったことはありませんでした。


「あの子がそうだって」

「あー、そうなの。かわいそうに」


 遠くから視線を感じ、声がして、それを聞き流しました。

 先日からよく目にしてきた光景で、もう慣れてしまっていたからです。

 

「やっぱり、女手一おんなでひとつでは無理だったのよ」

「子供を一人残して行くなんて、何を考えてたんだか」


 勝手な事を言わないでと、いつも口には出さず、心の中で思いました。


 この人たちとは今日初めて会って、それなのにみな私のことを知っているように言うのです。


 もう、そんな光景を見るのも嫌になり、下を向いていると、周囲が騒がしくなって目の前で誰かが立ち止まりました。


「あなたね・・・」


 ぼそぼそと、かすれた女の人の声がして顔を上げると、顔中にシワがより始めた、年配の女の人がそこにいました。


「あなたが、娘にあんな事を・・・!」


 突然両肩を力強く掴まれて、痛かったのですが、それよりも目の前の人の気迫きはくに押し負けました。


「どうしてあんな事したの!」


 どうして? と示すものは一つしかありませんでした。


 そのことを口にしたくて、でも、怖くて言い出せないでいると、急にわたしの肩を掴んでいた手が緩みました。


 目の前の人が振り返り、その先を見ると、同じくらいの年配の女の人がそこに立っていました。


 その人は、以前に少しだけ話した事がありました。背筋が真っ直ぐに伸び、姿勢も良く、気品にあふれている方で、母が亡くなり、病院に連れて行かれた後もすぐに来てくれて、色々と手続きをしてもらいました。


 目の前の人の、わたしの肩を掴んでいた手は離れて、その人たちは互いに向かい合い、火がついたように話だし、険悪けんあくな空気が流れ始めました。


 どうすればいいのかわからず、ただおびえていると、急に誰かに肩を叩かれました。


 そちらを向くと、四十代くらいの女の人が人差し指を口に当てて、しー、とこちらを見て微笑み、何も言わずに私の手を引いて、その場を離れました。


 そもまま手を引かれて、みんながいる部屋を出て廊下を歩き、誰もいない椅子のある静かな場所に着くと、そのその人は歩くのをやめて、わたしに向かい、話し始めました。


「いやー、まいったねー。ああいうのは好きじゃない」


 ものすごく緊張感のない、軽い口調でした。

 “ああいうの”とはさっきの人のことでしょうか? それならば、


「わたしが、悪いんです。多分、全部・・・」


 正直に、思っていた事を口にしました。


 わたしがあのような事をしなければ、いえ、それ以前にもっとしっかりとしていればよかったのです。


「そう? でも私は誰が悪いかなんて興味ないわ。そんなどうでもいい事より、あなたがノアちゃんよね?」


 さっきよりも軽い言い方で、どうでもいい事とあっさりと投げ捨てられ、驚きました。


「はい・・・そうですけど・・・」


 そう答えると、目の前の女の人はじっと舐めるようにわたしを見て、やがて、うんうん、と言いながら頷いたと思うと、急に「あはは、確かに似てる」と訳のわからない事を言い出しました。

 

「ごめん、ごめん。ねえ、いきなりなんだけど、私はね、あなたのお母さんから、もしもの時はあなたを預かるようにって頼まれてたの」


 初耳はつみみでした、この人とは初対面ですし、誰からもそんな話をされた事はありませんでした。


「母が、ですか?」

「そう、お母さんが。最初は面倒だし、断ったんだけど、どうしてもってね。だから約束したの、そんな事が訪れないようにするなら、引き受けるって。でもまぁ、結局はこうなるのよね」


 少し遠くを見るような、寂しそうな表情をみせたこの人に、わたしはたずねました。


「わかっていたのに、どうして引き受けたのですか?」

「知りたい?」


 何も言わず、頷きました。


 母の話を聞きたかった事もありますが、単純に守れないと分かっている約束をした理由を知りたいと思ったのです。


「そんなに大した理由じゃないの。ただ引き受けたことで、少しでも重荷を減らせたらって思って。それに最後まで生きる努力をして欲しかった。あなたの事を相談された時、お母さんは生きるのに疲れていたわ。だから、言ってやったの、そんなんだったら引き受けないって」


 生きることに、疲れていた? 母はわたしの前でそんな素振りをした事はありませんでした。

 

「それは、いつの話ですか?」

「半年くらい前ね」

「そんなにまえから、母の身体は悪かったのですか?」

「ええ、そのずっと前から相談されていたわ。でも、あなたの様子を見る限り、あれは約束を守ったのね」


 この人はこの時はじめて、悲しそうな表情をしました。


「わたし・・・知らなくて、あんなに近くにいたのに、気づかなくて、」


 わたしは知らなかったのです。


 だって母はいつも笑顔でした。

 いつだって楽しそうで、だからわたしもつられて、いつも楽しかったのです。


 そう考えると、急に目尻が熱を持ち始めました。


「あなたが大切で、頑張ったのよ。全く、ほんと押し付けてくれる」


 目の前の人は、わたしの頭に手を添えて、やさしく撫でてくれました。

 そして、わたしが落ち着いてくると、この人は再び話し始めました。


「あなたのお母さんは約束を守った。だから、私も守らないといけないのだけど、あなたはどうしたい?」


「え?」


「確かに頼まれたし、私もそれを了承したけど、実際に生活するのはあなたよ。だからあなたが決めて」


 先ほどまでとは違い、話し方には真剣さが感じられ、わたしも気を引き締めて、たずねました。

 

「断れば、どうなりますか」

「さあ? どうにでもなるんじゃない? この国は子どもを見放みはなしているようでも、まだ見捨みすててはいなさそうだし」


 なんでしょうか、その表現は。どう言う意図があって、何が違うのでしょう?

 言葉の意味がわからなくて、じっとしていると「それで、どうする?」と再び訊かれました。


 少し悩んで、それから「行きます」とこたえました。


「あははは・・・いいの?」

「はい・・・どこにも行く場所なんてないので・・・それに、どこかへ行くなら母が信じた場所がいいです」


 この人の事はわかりません。


 でも母はこの人に相談していて、おそらく最善だと考えてわたしのことを頼んだのだと思います。

 

 それを、信じてみてもいいのかと思いました。


「わかったわ。それじゃ、手続きとか色々としなくちゃいけないから、それまでは色々な人の所で過ごしてもらうけど、我慢してね」


 はい・・・と返事をし、先の見えない未来のことを考えて、不安になりました。

 

「約束するわ。絶対に一人にしないから」

「よろしく・・・お願いします」


 こちらこそ、と微笑みながらいい、この人は通路の先を見ました。


 わたしも振り向くと、通路の先に、先ほど止めに入ってくれた気品のある年配の女の人が、立っていました。


 不思議な緊張があいだに流れて、それがどうしてか嫌な感じはしませんでした。


「さ、そろそろ式が始まるわ、会場に戻りましょう。しっかりと、お別れしないとね」


 その言葉はわたしに向けられたもののようでいて、この人自身にも語りかけているようでした。


 そして背中をやさしく押されて、先に行くようにとうながされました。


「ノアちゃん」


 少し歩いた先で、名前を呼ばれて振り返りました。


「必ず迎えに行くから」


 そう言われて、頭を下げました。

 迎えに行くと言った声には、先ほどと違い、強い決意のようなものを感じた気がして、母が信じたように、わたしもこの人を信じてみたいと、そう思えたのです。




 葬儀が始まると、先ほどのめ事などなかったかのように、みなが席について静かにしていました。


 ただ静かに、淡々たんたんと何の問題もなく式は進行し、やがて前へでてと言われて、母が入った白いひつぎの前へと通されました。


 この部屋いにる、知らない大人たちの視線を背中に一斉にあびながら、ふたの開いていない、現実味のない白い棺をみていました。


「開けてください」


 そう、棺から目を離さず、ここにいる誰かに言いました。


 一瞬ざわめき、やめた方がいいと誰かが言いました。


 それでも、開けてくださいと、ただ言い続けました。


 わたしは見なければいけませんでした。


 現実を、大好きな母の死を、その大好きな母にわたしが何をしてしまったのかを、受け入れることができるように、その姿を目に焼き付ける必要がありました。


 そうやって子どもらしい駄々をねていると、あの気品のある年配の女の人が隣にやってきて、開けるようにと誰かに頼んでくれました。


 その人は何も言わず、わたしを支えるようにの肩をやさしく手をまわし、側にいてくれました。そのあたたかさに勇気づけられながら、棺の窓が開かれる様子をじっと見守っていました。


 そして、棺は開かれて・・・その中に眠る、ずっと側にいてくれて、大好きだった母の遺体を、ただずっと視界におさめていました。


 


 

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