「いた」んだあとは、また「むき」あえて 8-3
画面を見て固まった。
単純に、怖かった。今朝のこともあったし、気まずかった。
母の方から電話をかけてくるのは珍しい。
普段からよっぽど急な用事でしか連絡はしてこないし、そもそも電話ではなく、いつもならメッセージを送ってきていた。
そんな母が、わざわざ電話をかけてきた。
理由なんて一つしか思い浮かばなくて、恐る恐る、画面を操作して、五コールめで電話に出た。
「もしもし、母さん」
声を発するたび、心臓が高鳴る。それでも平然を
「母さん?」
時間が経ってから、もう一度声をかけた。けれど、スピーカーからはザーと小さな電子音しか聞こえてこない。
怒って、いるのかな?
朝と同じように。そうは思っても、ここにいない母のことは、分からなかった。
「ごめん、母さん。学校でちょっとあって、まだ迎えにいけてないんだ。今から、すぐに行くから。だから」
だから、と繰り返して、自分でも違うなと思った。
多分、理由はそれじゃない。
これだと朝の時と何も変わらない。
確信はないけど、そう思った。
なら、どうして何も話してくれないの?
話さないになら、なんで電話なんてかけてきたの?
不安のあまり、そこにいるの? と問いかけて、
目を伏せて、呼吸を整えいてから、小さく声を振り絞った。
「母さん………答えなくてもいいから」
どうして、私と一緒にいてくれるの?
そう言おうとして、唇を引いて、言葉を引っ込めた。
その、ずっと昔から抱いていた疑問を、今訊け、そう訊けと何かが叫んで、背中を叩いて、それでも口を閉ざした。
今話したいことは、伝えたいことは、そんなことじゃない。
でも、何を言おう?
頭で考えても何も浮かばなくて、苦しさのあまり携帯を強く握っていると、ふっとある事が頭の隅に浮かんできた。
「………母さんはさ、帰って来たら何食べたい?」
がさっ、と静かな物音がスピーカーの雑音混じりに聞こえた。
自分でも、なんでそんな事が浮かんできたのか分からなかった。でも、言い終わる時には、自然と頬が緩んでいた。
もう何年も、ずっとそれしかしてこなかったのに。咄嗟に浮かんだ事は、そんな単純なこと。
母は一人でも生きていける人で、そんな母のために幼かった私がしてあげられる事なんて、せいぜいご飯を作ってあげる事だけだった。
多分これからも、そのくらいしか返せない。
物音の後も、母は何も言わなかった。
耳鳴りがしてきそうなくらい静かで、それなのにやっぱり電話は切れなくて。私もただ、母の返事をじっと待っていた。
そんな時間が少しばかり続いて。やがて終わりを告げるように、スピーカー越しに扉を叩くような音と「
「ごめん、仕事中だよね。私も、早くノアちゃんを迎えに行かないと。それじゃ切るね」
そう言って、電話を切ろうとすると、小さく「待って」と声が聞こえた。
あわてて携帯を持ち直し、耳に当てて息をひそめて、続きを待つ。そして、
「あなたの料理を食べたいわ」
待ちに待ったその声は、表情が見えないせいかいつもとは違って、優しさも冷たさも感じない、フラットなものだった。
でも、どこかなつかしさを感じて。その声を胸の奥で抱いて、目を閉じた。
そっか、そうだよね。約束したもんね。
「うん、わかってる。待っててね」
きっと作るから。
「まい!!」
教室の扉を開けると、大声で名前を呼ばれた。
驚いて肩がビクッと反応して、それから声のした方を向くと、私の席を囲むように、
「二人ともまだ残ってたんだ」
「真惟、ごめん!」
私の言葉を無視して、灯が駆け寄ってきて、私の手を握った。
「あたし知らなくて、無神経な事言ってた」
「えっと? なんの事?」
「お父さんの事。潮音から聞いた」
横を向くと、潮音が気まずそうに目を逸らした。
「ごめん、話した」
物悲しそうに下を向く二人を交互に見て、それから励ますように、声を出した。
「さっきも言ったでしょ、気にしてないって。だってもう何年も昔のことだよ? 私自身、もうよく覚えてないんだから。それよりも、どうして二人とも残ってたの?」
私の言葉に、二人して目を丸くして、それから呆れたように大きく息をつくと、潮音が口を開けた。
「真惟が戻ってこないから心配してたんだよ」
荷物をまとめると、待ってくれていた二人と一緒に、三人で昇降口に向かった。
もう、私達以外残っていない廊下を、遅くもなく、早くもない。体に慣れ親しんだ速度で二人の後ろを歩く。
誰もいないから、並んで歩いてもいいのだけど、こうして後ろから二人を見るのが好きだった。
こうしていると、話していなくても二人の存在を確かに感じられて、こんな自分にも友達ができた事を実感できた。
「いやー、お腹へったねー」
と横を向いて気楽そうに灯が言うと、潮音が「もうすぐで二時だから」と前を向いたままそっけなく答えた。
携帯を取り出し、自分の目で時間を確かめると、言葉通りの時間で、少し焦る。
二人には悪いけど、ここで別れて、走って行こうかと考えていると、歩きながら灯が振り返り、楽しそうに口を開いた。
「ねえ、お腹すいたし、この後どこか食べに行こうよ」
「え?」
灯からの提案に足が止まり、心臓が跳ねた。
「また? 昨日遊びに行ったばかりじゃん」
「いいじゃん、べつに。で、そう言う潮音はどうする?」
「私はいいけど、真惟は?」
先へと歩く、二人の声が遠かった。
ノアの送迎をする事で何を失うのか、考えていなかったわけじゃない。
でも、認識が甘かったんだ。
「真惟?」
二人は立ち止まったままの私に気がつくと、その場で振り返り、心配そうにこちらを見る。
そんな二人に対して、声をかけた。
「ねえ、二人とも」
何? どうしたの? と二人が一斉に私の目を覗き込んで、息が詰まった。
言葉が出てこない。
不思議そうに私を見つめる二人の視線が痛かった。
やらなきゃいけないことができたから、もう放課後は一緒に過ごせない。
そう、伝えなくちゃいけないのに、言葉にしようとしたら、どうしようもなく、辛かった。
迷う事はないはずなのに。
今は早く、ノアを迎えに行かなくちゃいけないのに。それが私の役割で、朝に約束して、その前にも側にいると約束して、それなのにどうして、今その決意が揺らいでいるのだろう。
とても情けなくて、とても痛くて、辛かった。
………ああ………そっか。私はもっと、二人と過ごしたいんだ…………
ずっと気づかなかった。実感もなかった。
もっと二人と過ごしたい。今だって、すぐにでも頷いて、どこかに一緒に行って、ご飯を食べて、他愛のない話をして、職員室での出来事の愚痴も聞いてほしい。
心のどこかで、何もかも投げ捨ててしまいたいと叫んでいた。たとえ誰かに非難されても、この二人と過ごす時間は、掛け替えのない物だと、そう思えるから。
でも、それはノアとのひと時だって、一緒で。
ノアとの時間は楽しいとはまた違って、何だか忙しいけど、どこか落ち着けて。頑張っている姿を見るたびに、何だか、自分を見つめ直せて、もっと頑張ろうって元気をもらえる。
だから、一緒にいてあげたい。
今、あの子が傷ついているのだとしたら、本当の意味で元気になった姿を見てみたい。その手助けをしたい。
世界ってずるい。
気がついた途端、ほとんどの物事は、もう手遅れだ。
過ごしたい時間が別々にあって。過ごせるのは片方だけで。どっちも大切で、ようやく手に入ったのに、手放せと言ってくる。
ずっと、ずっと。心のどこかで欲していたものなのに。
「やりたい事が、あるんだよね」
意識の外から聞こえた声に、え、と前を向くと、潮音が恥ずかしそうに、視点を揺らした。
「あ、えっと……そう! 真惟はさ、何か行動しようとする時っていつも今みたいに一人で考えて悩むでしょ?」
潮音からの指摘に「そうなの?」と訊き返すと「そうだよ!」とムキになって言われて、思わず「ごめん」と謝ってしまった。その私に対する自信はどこからくる物なのか、少し気になった。
「迷う事無いと思う……上手く言えないけど、誰かのためなんだよね?」
うん……と心細く頷く。本当にそうなるのか、自信がなくて、自己満足に近いけど。そうでありたい。
「なら、やっぱり行くべき、だと思う。したい事、なんでしょ?」
「うん」
「なら、迷わないで、ほしい。真惟がそう思てるなら、きっと正しい」
潮音からの言葉は噛み噛みで、おそらく必死に言葉を選んでいて、真剣に私を捉えた瞳が、一所懸命さを伝えてくる。
どうして、そんなに? と聞く前に、急に潮音は踵を返して「なら、有言実行!」と少し空元気気味に言って歩きだした。
唐突な事に、その場で立ちすくんでいると、灯が駆け寄り「行こう」と言われ、背中を押した。
なされるがまま歩き出して、目の前の背中を追いかける。
私よりも少し背が低くて、髪も少し短くて、全体的に細身の、あまり力強いとは言えない背中。
その背中に、強く引っ張られる。手は繋いでないけど、私の中の何かを突き動かしてくれている。
廊下を歩いて、階段を降りて、また廊下へ。あっと言う間に、昇降口までたどり着いて、下駄箱の前で立ち止まった。
「どうして?」
下駄箱から靴を取り出している二人に、声をかけた。
「え?」
「どうして、二人は私と友達になってくれたの?」
こんなどうしようもなくて、今まで他人を傷つけてばかりだったのに。それを、二人だって知ってるのに。
「私は、二人に何も返せない」
趣味と言えるものも特に無い。ファッションにも興味ない。やってる事は全部、自分のため。
「それなのに、どうして」
ただじっと、二人を見ていた。目が離せなかった。
恥ずかしいくて、情けない事を言っていると、自覚はあった。だから、馬鹿にされたり、心配されたりするんじゃないかって、少し怖かった。
けれど、
「そんなの、一緒にいたいからに決まってるじゃん」
何気なく、さらりとしたいつもの明るい声で灯は答えた。
「あたしは真惟といるのが好きだよ。勉強も教えてくれるし、話も聞いてくれる。たまに難しい事を話してるから、ついて行くのが大変だけど、それでも授業と違って、あたしに寄り添ってくれてるから、嫌じゃない。潮音はどう?」
灯から急に話を振られ、潮音が肩を揺らす。それから、うーと苦しそうに唸って、ぎこちなくこちらを向いた。
「………真惟は忘れてるかもしれないけど………私だって、友達いなかったんだよ」
話す度に、だんだんと物悲しげになっていく視線が、私を見つめていた。
「ずっと、一人で本を読んでて。漫画が好きで、学校にまで持ち込んで、怒られて、取り上げられて、それでしょげてたところを、関係ないのに、助けてくれて……その後もたくさん、話に付き合ってくれて……だから、仲良くなりたかったし、真惟が返せないなんて事、無い」
いつの間にか、潮音の瞳が潤んでいる。感情でいっぱいで、ふらふらと倒れてしまいそうで。でも、まだまだ言いたいとはあるみたいで、言葉にできないのか、口だけがもごもごと動いている。
そんな潮音を灯がそっと支えた。
それから、くしゃくしゃだよー、と潮音の肩をゆさると、潮音は目を閉じてゔーと唸った。
何だか、いつものような見慣れた光景に見惚れていると、灯がこちらを向いて、ささやいた。
「ねえ、真惟は?」
ん? と首を傾けると、灯は少し目を伏せて、間を開けてから、再びこちらを向いて話し始めた。
「真惟は、何で私たちと友達になってくれたの?」
言い終えると灯はにっと笑って、にこにこしながら、目を閉じてくしゃくしゃになった潮音を今度はおもいっきり左右にゆさった。ぐらぐらと潮音の頭が大きく揺れて、その度に変な声が出てて、その光景がおかしくて、今度はこらえきれず、声に出して笑ってしまう。
笑らったまま目を瞑ると、二人との思い出がふっと次から次へと瞼の裏に浮かんできて、全身を巡って、温める。
たまに、こそばゆいような、つーんとつつくような不思議な感覚を味わうと、その度にふっと息が溢れた。
目を開けて、二人を見据える。ずっと待っててくれて、話しかけてくれて、笑い合ってくれる人たち。
どうして友達になったのかって?
そんなの、決まっている。
「一緒にいたいって、思ったからだよ」
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