『なぞ』った跡は、また『いた』んで 7-4
職員室の中にある、応接用の白いボードで周りを隔絶した場所で一人ソファに座っていた。
職員室の雰囲気ってどんな学校も似ている気がする。
一年中かかっているエアコンの音。キーボードを叩く音。内容のわからない先生たちの話し声。整理ができているのか分からない書類が入った棚。埃っぽい空気。
そのどれらも統一感なく、ごちゃごちゃしてて好きではなかった。
正直、理不尽だと思う。
呼び出されたのに、職員室に来ると石崎先生はいなくて、ここで待てと言われた。
いい加減待つのにも飽きて、誰かに呼んできてもらおうか考えていると、その相手は腕に大きな段ボールを抱えて、やってきた。
中年の威圧的な男性の先生。体格は太め、今日は初日だからか、ネクタイを締め、スーツをしっかりと着ている。
目が合うなり、頭を下げた。
石崎先生は何も言わず、テーブルを挟んで私の向かいの椅子に腰掛け持っていた箱を脇に置いた。
「何で呼び出したか分かるか?」
ぞっとするくらいに低い声が職員室に響く。
「進路の事ですか」
その威圧感を気にせず、平然と返した。
先生とこうして話すのも、もう何度目かも分からないし、それにできるだけ早く終わらせたかった。先生もそのつもりなのか「そうだ」と言うと、クリアファイルから見覚えのある一枚の紙を取り出して机の上に置いた。
「これは何だ?」
「私の進路調査票です」
「何でまた空欄なんだ?」
「決めてないからです」
「どうして決めてないんだ?」
「わからないからです」
いつの間にか、エアコン以外の周囲の音は聞こえてこない。互いに睨み合い、きっと側から見ればバチバチと火花を鳴らしているように見えるだろう。
「分かった。ならここで決めなさい。大学のパンフレットも持ってきた。こっちの資料には卒業生の声も載っている。参考にしなさい」
机の上に段ボールが置かれた。先生はそこから資料を取り出して、分かりやすいように机に並べる。その量は膨大で、これを集めてきたからこの場に遅れた、そう思った。でも、
「ありがとうございます。でも今はその事を考えたくありません」
資料を広げる手を止めて、石崎先生が私を鋭く睨んだ。
「そういう問題じゃないだろ? これで何度目だ? 早い段階で決めて準備をしないと、良い進路に進めないぞ」
良い進路って何を指すのか。その曖昧な言葉を指摘しようとして、やめた。感覚でわかる八つ当たりより、今は横道にそれず早く終わらせたい。
「わかってます。でも、もう少し考えたいんです」
「そうやって、いつまで先延ばしにするんだ? 周りだってみんな決めてるだろ?」
「周囲は関係ありません。何も考えず、無理やり決めた進路が、いいものだと思えないだけです」
話は堂々巡りで平行線だった。
理由は単純。互いに考えを譲らないからだ。
多分、非があるのは言う事を聞かない、私の方だけど。
「もう今日はここまでにして、日を改めませんか? このまま話していても、答えは出ません」
こんな事をしている暇はなかった。
そもそも、今日はしなくちゃいけない事が山積みで、急いで答えを出さないといけない問題をいくつも抱えている。
今は、一秒でも多く、考えたい事がある。
「わかった。だが一つに決めなくてもいいから、いくつか選んでくれ。それが出来たら、教室に戻っていい」
眉間に力が入る。
それでは決めるのと一緒じゃないか。
ため息をつきたかった。あと、暴言だって言ってやりたい。でも、それではいけなという事もわかっている。
そもそもこうなっているのは、私が記入しないまま提出したからだ。この人は自分の仕事をしているだけ。私が最初から出来ていれば、こんなことにはならなかった。
だから、“全部”わたしが悪い。
ソファにさらに深く腰をかけた。視線が下がって、テーブルの上の資料に手をかけずに眺める。
広げられたパンフレットの
きっと当てずっぽうではなく、私の進路調査の結果を見てから、持ってきてくれたのだろう。
適当な一冊を手に取る。ページをめくると学部ごとの説明と共に、写真に写った知らない人たちが目に入る。皆が笑い、楽しそうで、輝いているようにも見えた。
急に頭の中にノイズが走った。
ザラザラと、頭の中を
「すみません。やっぱり決められないです」
パンフレットを閉じて、目を逸らす。
今はまずい。何かが、抑えが効かなくて、どうしようもなくなってしまう。
「なあ? どうして決められないんだ?」
そんな私の気など知れず。先生は語り出した。
「お前は優秀だ。確かに、教職員との間に何回か問題を起こしたが、ちゃんと成績を残してるし、その問題だって、お前にばかり非があるわけじゃない」
唇を引き締める。
そんな言葉を、今は聞きたいわけじゃない。
他人を動かす為に、優秀だとか、非がなかったとか、カタチだけ寄り添った言葉を掛けるくらいなら、もっと違った方法があるはずだ。
その方法を見出して、後代の為に残そうとしてくれた人たちは何人もいて、その成果や想いの一部は、確かに現在に届いている。
「今までに何人も進路に悩んでいた奴等を、俺も見てきた。その殆どの奴らが、努力もしない言い訳ばかりのどうしようもない奴らだった」
くどくどと関係のない話を先生は口にする。
長話を聞く最中、私の中で、何かが
コツコツ? ドクドク? 音をたてるように、沸騰しきった
「だがお前は違うだろう? ちゃんと努力をしてるし、それが形になっている。そこまで出来るのに、どうしてこの程度の事が決められない?」
腕が痛い。もう火力は充分なのに、中身は既に煮えてるのに、火が治らない。火力は上がり続け、抑える事に必死になる。
「簡単な事だろう? とりあえず一度決めて、進んでみればいい。最初は違和感を感じていても、進んでいるうちに、もしかしたら自分に合っていると思えるようになるかもしれない」
とりあえず、もしかしたら、かもしれない。
一瞬の間に、あいまいな言葉が、まるで着火剤のように、
「どちらにせよ、決めなければ始まらない。今の状態では何もできないだろ? なら少しでもやってみなさい。そうすれば、お前の両親だって安心出来るだろう?」
その瞬間に、私の中で何かが
音を感じることもなく。
瞬間的な衝撃が身体中を走り、お腹の奥底に煮えたぎる何かを残して、あとには何も感じなかった。
再び前を向くと先生は相変わらず飽きる事なく喋り続けている。でも、さっきまでとは違い、その話を聞き流した。
どうでもよかった。
全校集会での校長先生の話のように、誰にも向けられていない
だとすると。私が聞いていないのなら、今この人は誰に話しているのだろう。そう思うと
「おい! 聞いているのか?」
目の前にいるのだから、聞こえてるに決まってる。
「聞こえています」
聞いてはいないだけ。
先生を睨んだ。
冷静に、冷酷に。ただ相手の目だけをみて、感情を読み取る。他の情報は切り捨てた。読み取るだけ無駄だし、知りたくもない。
でも、その必要はなかったかもしれない。
先生はさっきとは違い、何かを言いたそうに、むかむかしていて、苛立っているのが考えなくてもわかった。
大人気ない。子ども相手に、ましてや、あなたの生徒なのに。
そんなに気を立てたら、見えるものも見えないじゃないか。
「何だ? その目は?」
イライラした声で、先生は言った。
「目、とは?」
理由を知っていて、訊き返す。
「その目つきだよ。何か不満でもあるのか?」
不満? ふまん……
「そう思っているのは先生じゃないですか?」
「何だと?」
「先生は人が苛立つ仕組みって知ってますか?」
は? と先生は言って、額に皺がよる。
「自分の思い通りにならないから、苛立つんですよ」
そんな話を先生にしながら視線を下げて、自分の進路票へと手を伸ばした。
「人は誰しも理想があります。理想というのはある意味でルールと同じです。個人が世界と触れ合う時に無意識に意識する、こうあるべき、こうでなくてはいけない、これは間違っている、などの自身の価値観……または尺度のようなものです」
話をしながら、近くにあったボールペンを取って、進路票を書き進めた。
「それが内側に向いたものなのか、外に向いているものなのかはこの際どうでもいいでしょう。要はそのルールから他人、もしくは自分が
ちょうど話を終えたところで進路票を書き終えて、再び顔を上げる。
「それは俺への当てつけか?」
「そんなつもりはありません。ただ、人を導く際にそこまで感情を
先生の前に進路票を置くと、立ち上がった。
そのまま歩き出て行こうとすると、先生に呼び止められた。
「どこに行く?」
「教室に戻ります」
「待ちなさい」
「どうしてですか? 言われたとおり、進路は選びましたよ」
「まだ話があるから座りなさい」
振り向くと、先生はみたこともないくらい、気を立ててた。
面倒だった。子どもの助言など、この人は気に留めてはくれない。
潰してあげようか?
真っ黒な感情が、相手に向かってそう囁く。
この目の前の人を、もう立てないくらい折ってしまって、直せないくらいに砕いてしまおうか。
人を折るのは簡単だ。その方法も、知識も、言葉も知っている。あとは実行するだけ。
その私に向けてくる安っぽいプライドを、根本から無意味だと教えてしまおうか?
そう思いながら、口を開けた。ゆっくりと静かに息を吸って、声を出そうとした。でも。
いつになっても、言葉は出なかった。
再びソファに座ると、先生は話出した。
何を言っているのかは分からなかった。そもそも聞いてすらいなかった。
ただ座って、下を向いて、自分の進路票を見ていた。
紙一枚に書かれた私の未来。
それを開いてくれた人たちと、ずっと一緒にいてくれる人。出会ったばかりなのに、何度も私をやさしいと言ってくれるあの子。
それらが私を締め付けて、留める。
ねえ、ノア。
私はね、やさしくなんてないんだよ。
ずっと自分の中にある醜い部分と戦っててね。よく負けてね。周りの人を傷つけて。
一番そばにいてくれる。とっても大切な、幸せにしたいと思ってる人にすら、
本当の私はね。
とっても弱くて、醜い存在なんだよ。
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