なぞ』った跡は、また『いた』んで 7-3
「腐った母親を抱いて寝てたのよ」
仄暗い部屋の中、頭の中で言葉が反響する。
何も言い返せなかった。
きっとそうだろうと、思っていたから。
「答え合わせができてどう? 合っててうれしい? それとも嫌?」
その問いに胸の奥からどくどくと脈を打って、真っ黒い感情が湧いてくる。脈のたびに、目の前が真っ赤になって、体が勝手に動こうとする。母の白い首元に狙いを定めて、今か今かと、
歯を食いしばり、それが表に出さないように
「怒らないの?
そんな私とは裏腹に、母は眉ひとつぶれない、いつもの穏やかな表情で問い続ける。
「………おこらないよ」
どうにかして声を振り絞る。
怒っていいわけない。そんな資格、私にはない。
「そう」
私の言葉を聞いて、母は目を細めて小さく呟いた。母の冷たい指先が私の頬から離れていき、そのまま立ち上がると後ろを向いて去って行く。
ようやく拘束から逃れることができて、溜め込んでいた息を吐き出すと、そのまま下を向いた。
ノアは起きていない。まだ穏やかな吐息が聞こえてくる。さっきの会話は聞かれてはいなかった。その事に安心して、目の奥が熱くなる。
「で? あなたはどうしたいの?」
聞こえた声に上を向く。母は扉の前で冷たくこちらをみていた。話はまだ終わっていないらしい。
どう、って?
「そんなこと、これからどうするかに決まってるじゃない」
なにが?
「いやだから、その子を返すのか、返さないのかでしょ」
まるで借りた物を返すくらいのノリで、母はノアを指さして言った。その事が人として信じられないのと同時に、母らしいとも思い納得した。
「返すって、それだとノアちゃんが」
「違う」
「だって、母さんが」
「違う」
私が話し出すと母は首を振って呆れたように否定した。
「その子がどうとか、私がどうとか、そんなどうだっていい理由を言い訳にしないで。そうじゃなくて、あなた自身の事を聞いてるの」
私がどうかって? そんな事、さらにどうでもいいじゃないか。でも、母は真剣に私をみて、答えるのを待っていた。それなのにいつまで経っても、私は答える事ができなかった。頭の中が、ごちゃごちゃしてまとまらなかった。
やがて母は深く息を吐いた。
「そう、少しは変わったと思ってたのに。あなたってほんとうに、あの頃からなんにも変わらないのね」
冷たい言葉が胸を突き刺し、頭を揺らす。
「まあ、いいわ」
また背を向けて母は出て行こうとする。
「待って」
とっさに、その背中を呼び止めた。私はまだ答えを出せていない。いま伝えないと、何かがダメになる。
「もう仕事に行くわ。後で聞いてあげるから、その時までに考えておいて。あと、今日は帰らないから、よろしく」
その背中を止めたくて、立ちあがろうとすると、足が重くて立てなかった。下を向くと、ノアの寝顔が見えて、今の状況を思い出す。
どうして忘れていたのだろう。あんなに大切だと言って、思っていたのに。
顔をあげると、母は去って行く。扉が閉まるその瞬間、一度だけ振り向いて、数年前まで毎日のように向けていた、あの見下すような冷たい視線が私を貫いた。
どこで間違えたのだろう。もうそんな視線を向けなくてもいいようにと、頑張ってきたのに。
扉が閉まると、一人になった。
一人ではないはずなのに、この感情を味わっているのは私だけ。
ノアは寝ている。
こんな冷たくて硬い床に寝ていたのに、手を握るとあたたかくて、もっと心地の良い場所で寝なよと言いたくなる。
「ごめんね⋯⋯⋯」
背中をかがめて、顔を近づける。
髪が長いせいだろうか? それとも乾かすのがあまいせいなのか、シャンプーの香りが強く残っていて、鼻を撫でる。こそがゆくて、つーんとした刺激が目元に伝わる。
「ごめんね」
溢れ出る想いを、押し殺す。
みてないなかったんだ。口先だけで、大切な事から目を逸らして。だから、こんな事になってしまう。
ノアの背中に手を回して、抱え上げる。こんなところで寝てたら、風邪ひいちゃう。もう朝になっているけど、せめて、もう少しだけでもゆっくりと寝ていて欲しかった。
布団に寝かせると、うーん、とうなって眉をよせて、口元が少し動いた。
起こしてしまったのかと慌てると、さっきまで私の手を握っていた手で布団をたぐるり、その後にはまた穏やかな吐息が聞こえてくる。
このままじゃダメだ。
このままだと、きっと誰もが不幸になる。
だから、どうすればいいのか、しっかりと考えて。
答えを出さないと。
新学期恒例の全校集会を終えて教室に戻ると、浮き足だっている同級生の間をぬって真っ先に自分の席に座り、大きく息を吐いた。
なんだかんだ、もう疲れていた。
集会の最中も、先生の話を耳にしながらずっと考えていて、それでもまだ母の問いに答えを出せていなかった。
私がどうしたいのか。
どんなに考えても、何もまとまらない。
まるでチェーンを外した自転車を全力で漕いでいるように、体力だけを浪費して、全く前に進めいていない。そんな感じだった。
それに、母の問いにばかり、かまけてもいられない。
あと数時間で今日の学校の日程は終わる。そしたらノアを迎えにいかないといけない。ノアの担任の先生とも話をしないといけないし、まだしなくちゃいけない事が沢山ある。
何より、ノアに謝らないと。
今朝は色々あったせいで何も言えなかったし、平然を装うだけで精一杯だった。
おかしなところはなかったと思う。疑問を持っているようには見えなかった。拒否されているよにも。だから、まだ間に合う。学校が終わるまであと数時間。それまでにどうにかする方法を考えないと。
でも、どうするのがいいのだろう?
下手な謝罪では、また傷つけてしまいそうで、母の問いと同じかそれ以上に、こっちの問題も大きかった。
「まーい!」
突然、背中を押されて驚きのあまりに「うぉ」と変な声が出た。こんな事をしてくるのは一人しかいない。
「どうしたの
「いんやー、別に。ね、
灯の後ろを見ると、潮音が手で額を抑えながら歩いてきた。
「はぁー………いつもと同じ、灯の奇行だから気にしなくていいよ」
「あー。そんなこと言う? 話しかけるの気まずいって言ってきたのはそっちなのに」
そうなの? と
「ちょっとー、あたしの席ー」
「うるさ、少し貸してよ」
「わかった。いいよー」
灯は頷いて、私の席の前へと周り、膝立ちになって机に肘を置いた。私も二人が視界に入るように、体を斜めに向ける。
「どうしたの? 二人とも」
「いいやー、朝話せなかったし、ちょっと話したかっただけ。あ、今話しかけたらまずかった?」
「そんな事ないけど、でも話ってどんな事?」
「んー、気楽な話がしたい。校長先生話が長い〜、とか」
あー、と思った。今日は確かに長くて、退屈だった気がする。ずっと考え事してたから、あまり聞いていなかったけど。卒業生の話とか、春休み中に起きた世界のニュースとかを話していた気がする。
「話長かったね。もっと簡潔にすればいいのに」
「無理でしょ。短く出来るならもうやってるって」
潮音が腕を組んで少し苛立ち気味に言った。
今日の話はよっぽど面白くなかったらしい。
「まあ、楽しい話をする事が仕事じゃないから」
「あー、またそうやって真惟は先生の肩を持つー」
「別に、そういう訳じゃないって。ていうかこの話って楽しい?」
流されるように話していたけど、ふと疑問に思って訊いてみると、
「全然」
「楽しくなーい」
タイミングを合わせたかのように二人はそう言い、首を横に振った。
まあ、昨日散々話したから、話題なんて出尽くしているし、すぐにできる話題なんて、そんな些細でつまらないものしかないのだろう。
「あー、もう高校二年生かー。はやいよー、もっと遊んでいたーい」
「灯はいつも遊んでいるようにしか見えないんだけど。またテスト前に真惟に泣きつくのはやめてよ。迷惑だから」
「何で潮音がそんなこと言うのさ。それに、最近は結構頑張ってるんだから。ねえ、真惟」
うん、頑張ってる、と少し笑いながら
出会ったばかりの、赤点をとって泣きべそをかきながらも、休み時間や放課後に必死になって勉強をしていた灯を思い出す。
確かに今の灯の点数もそこまで良くないけれど、それでも出会った頃よりは成績は上がってきているし、それと比例して教えてと尋ねてくる回数も減ってきていた。
「もう私が教えなくても大丈夫かな」
「え!? そんな事ないって! まだまだ中の下なんだから、教えてもらわないと困る!」
あはは、と必死になる灯が面白くて笑みが溢れる。まだ巣立つには早いらしい。
「そういえば担任の先生、また
これ以上突っ込まれたくないのか、灯が急に話題を変える。先ほどの全校集会では、担任の先生の発表もあって、私達のクラスの担任は白木先生だった。私と灯は去年から引き続きで、朝に先生と話した内容を思い出すと、何だか揶揄われた気分になった。
「あぁ……あの敬語の先生」
「何? 潮音はあの先生嫌? 結構面倒見いいよ」
「嫌とかではないけど、その………真惟と……」
潮音の視線が私を向く。顎を引いて、上部を向いた気まずそうな視線に少し戸惑う。
「私と?」
潮音が訴えている何かを私が分からずに首を傾げていると、先に何かを察したのか、灯が反応した。
「んー? あーそゆこと。真惟と白木先生、仲良さそうだもんねー」
それを聞いた潮音が灯を睨んだ。理由はわからないけど、その行動から、灯の予想は当たっているみたいだった。
「話はするけど、別に仲良くはないって。あ、でも」
「でも?」
「先生は教え子なんだよ、あの人の。だから、共通した話題があるだけ」
それを聞いてか、潮音が「あ……」と声を漏らす。向けられた視線からは気まずさが消えたけど、今度は自分を咎めているように見えて、少し心苦しい。
そんな潮音の頭に手を置いた。
「そんな顔しないで。嫌な事じゃないから」
そのまま軽く頭を撫でると「ん……」と唸って、頷いた。潮音は目を下げて、大人しくしてくれてるけど、その表情には、まだ不満が残っていた。
「ねえ、前から真惟に訊いてみたかったんだけどさ」
前を向くと、灯が眉をへの字に寄せて、不思議そうに尋ねていた。
「何?」
「そのたまに話に出てくる“あの人”って誰のことなの?」
何を訊かれているか分からなくて、一瞬固まる。頭の中で質問を反復していると、思考が追いつき、口を動かした。
「灯には話した事なかったんだっけ?」
「うん」
そっか、話したことなかったんだ。
訊かれなかったから、どこかで話していたものだと、勝手に思い込んでいた。
「私のお父さんの事だよ。小学校で先生をしてたんだ」
目を伏せて、机の中に意識が向く。他の本と一緒に仕舞われた、黒いブックカバーをつけた本が『それだけじゃないだろ?』と呪うように訴えてくる。
「そうなんだ。でもさ、どうして“あの人”だなんて他人のように言うの? 父親なら普通にお父さんでよくない?」
母にも言われたごもっともな指摘に、目を細める。
確かに、それが自然なのだろうとは思うけど、でも、
「それは」
「あのー、早瀬さんいますかー?」
声を遮るように、名前を呼ばれた。振り向くと、教室の入り口に他のクラスの男子生徒が立っていた。
その生徒が私に気がつくと、一度怯み、その場で「
そんな彼の後ろ姿を、灯は睨みつけた。
「何今の? あんなところで話すなんて、失礼じゃない?」
「別にいいよ。要件は伝わったし」
「石崎って、あの感じの悪い先生だよね? なんでまた?」
「まあ、一応あの人が私たちの学年主任だし。何となくだけど心当たりはあるから」
椅子から立ち上がる。曲げていた足を伸ばし切った途端、目が眩んで、少しふらついた。倒れるほどではなかったけど、そんな私を支えようとしてくれたのか、隣を向くと潮音が手を広げていた。不安そうな潮音が、口を開く。
「大丈夫なの? 体調悪いなら、無理して行かなくてもいいんじゃない?」
「心配してくれて、ありがとう。でも、行ってくるよ。どのみち、いつかは行かなくちゃいけないから」
それに、今行かないと今度は放課後に呼び出しがかかるかも知れない。
それだけは絶対に避けたかった。今日も、これからも、放課後だけは絶対に空けておかないといけない。
学校の時間内に呼ばれるなら、その方が都合が良かった。
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