『きれつ』のふちを、ただ『なぞ』って 6-1
「おきて」
意識の遠い中、やさしく囁かれて瞼に強く力を入れました。毎朝聞いてきた言葉で、でも体がぽかぽかして、まるで浮いているような心地のいい感触に流され、また意識が遠のきます。
「ちこくしちゃうよ」
そう言われてようやく、うっすらと目を開けました。まだ眠いと感じながらも体を起こして、いつもと変わらない朝を肌で感じとります。
朝は苦手で、できればずっと眠っていたいのですが、頑張って起きるといつも褒めてもらえました。「よしっ!」とか「すごーい!」とか小さくて些細な一言でしたが、すごく嬉しくて、辛いけどそのために毎日頑張って起きていたのです。
けれど、今日はいつまでたってもその言葉は聞こえて来なくて、目覚めていく思考が、わたしを現実へと引き戻しました。
記憶の中のくすんだ色の壁紙は、真っ白な壁に。硬くて少し埃っぽかった布団は、綺麗でふかふかな布団に。優しくてあたたかかった母は………
「おはよう、もう起きれる?」
そのやさしげな声の方へと顔を向けると、あわい黄色のパジャマを着たお姉ちゃんがほのかに笑みを浮かべながら、わたしを見守っていました。
その視線が恥ずかしくて、すぐ目を逸らします。
「あの……はい、おはよございます……お姉ちゃん」
「おはよう。朝ごはんできてるから、準備ができたら食べてね」
「はい……って、学校!」
今日から学校だと思い出して、焦って時計を見ると、想像していたよりもずっと早い時間で、安心のあまり、声に出して息を吐きました。
くすくす、と小さな笑い声が隣から聞こえてきて、顔を向けると、お姉ちゃんは目を細めて、静かに話し始めました。
「まだ余裕はあるから、焦らなくてもゆっくり準備して大丈夫だよ」
その表情に何か吸い込まれるような、変な違和感を感じながらも、わたしはその言葉に「はい」と小さく返事をして、また視線を逸らしました。
昨日、あんな事があったからでしょうか、今日はどこか気まずくて、うまく目を合わせる事ができません。
でもそんなわたしと違って、お姉ちゃんはあまり気にしていないのか堂々としてて、やがて静かに立ち上がると、部屋の隅へと足を運び、収納を開けて、その中に掛かっていた学校の制服を手にし着替えを始めました。
急にパジャマを脱ぎ始めたお姉ちゃんに驚いて、急いで立ち上がりまだ血の行き渡っていない寝起きの足をふらつかせながら、部屋から出ました。勢いよく閉めた扉を背にして、何故か高鳴った心臓を落ち着けます。
思えばこの数日一緒に過ごしていたのに、着替えている場に遭遇した事はありませんでした。
性別も一緒ですし、学校でも体育の時間とかでは同級生と一緒に着替えるので、別に気にすることなんて無いはずなのですが、同じ空間の中で肌を晒す、その事が気になって恥ずかしくて、引っかかってしまいました。
脳裏に映る、お姉ちゃんの綺麗な肌色の肩を振り払い、忘れようと努めました。多分、おそらくはこのよく分からない感情も、ここで過ごしていけば慣れていくのでしょう。
「過ごしていけば……」
舐めるように言葉を口にして確かめました。
そう、過ごしていければきっと、いつか。
朝が早いおかげか、それとも元々使う人が少ないのか、バスの中はわたしたちを除くと、指で数えられるくらいしか乗っていませんでした。
乗車口からすぐの席に二人並んで座ると、お姉ちゃんはわたしにバスの使い方を説明してくれました。
以前、校外学習で乗った時よりも事細かに説明してくれて、わかりやすかったのですが、
「でね、値段はあそこに表示されてて、その分を払えばいいから、ここまで大丈夫?」
「あ、はい」
お姉ちゃんが制服を着ている事に気を取られて集中できませんでした。
ブレザー、というのでしょうか? 確かにわたしが通っている学校の向かいに建った高校の制服で、よく見慣れた物でしたが、お姉ちゃんはそれを見事に着こなしていて、大人びていました。
きちっと整った襟元、崩れなく引き締まったネクタイ、まっすぐ伸びた背と自然と力を抜いている肩。その全てがかっこいいのですが、どこか遠い存在にも感じました。
あ、でも唯一スカートが短いのは学生らしいと思いました。パンツ型の制服を着ていたら、多分隣に座っているだけで、気を落として俯いていたかも知れません。
「説明するのはこれくらいかな、もしわからなくても、私も一緒にいるから心配しないで。降りる場所が近くなったら声をかけてあげるから、それまではゆっくりしてなよ」
へ、っといつの間にかお姉ちゃんの足をみていた視線をあげて、頷きました。
何というのか、今日のお姉ちゃんはいつもと雰囲気が違います。制服を着ているからではなくて、朝からずっと変……とまでは行きませんが、何かが違いました。
それが昨日の出来事が原因なのかと考えると、また落ち着かなくなって、仕方なく窓の外へと視線を向けました。
窓の外は知らない景色が目に入っては、覚えるまもなく遠くへと流れていきます。道を覚えていないから、歩いては帰れない。もし一人だったら? そう思うと急に、不安と孤独を感じました。
心細くなって隣を向くと、お姉ちゃんはいつの間にか、あの黒い本を鞄から取り出して読んでました。
昨日覗いてしまったお姉ちゃんの一片。
その本のことを訊きたくて、話しかけようとして、胸中にしまい口を黙ました。バスの中を見渡すと、乗客のほとんどが下を向いて、手元に持ったスマホを眺めていたのです。
みんな自分の世界に入っている。お姉ちゃんも、あの黒い本を開いて膝の上に載せ、眺めている。
なら今は邪魔をしないほうがいいと、諦めて目を閉じました。
道路から伝わってくる振動や、バスが出す大きな機械の音に身を委ね、これからの自分やお姉ちゃんとの事の為に、昨日の記憶へと意識を向けるのでした。
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