『きれつ』のふちを、ただ『なぞ』って 6-2
裸足で飛び出して、立ち上がることができないなか、あの人は何も言わずにわたしを車に乗せて、近所にあったアウトレットへと連れて行きました。
靴はなぜか車の中にあったサンダルを借りて、「寒いでしょ」と言って上着までも貸してくれました。
ですが、その上着は大きすぎて、袖を通すと裾が膝下までかかり、まるで何かの仮装のようで恥ずかしかったです。歩きにくくて、でもこの人はそんなわたしの気など知れずに、ずんずんと先に行ってしまうので、仕方なく早足で後を追いかけます。
すれ違う人達の目線が突きささり、気にしながらも足を進めると、視界の隅に飲食店が見えてきました。
店内に入り、慣れた足取りにつられ空いていた席に座ると、この人は楽しそうにメニューを眺めて、それから少しすると定員さんがコップを持ってきて、水を淹れてくれました。
「私はこれにしよっかなー、ノアちゃんは何がいい? あ、ご飯の前だから、ドリンクだけね」
「あ、いえ。わたしは」
この人は有無をいわせず、メニューを差し出してきたので、仕方なく目を通しました。
誌面には馴染みのない文字が並んでいて、口にした事がない飲み物なのに、名前だけ味を想像して、おいしそうで、口の中がきゅうっとします。
「遠慮しなくていいのよ」
それは悪魔の囁きのようで、わたしの中で何かが葛藤して、ざわめいて、でも、
「あの、やっぱりいいです」
目を閉じてメニューをはねのきました。
わたしはお金を持っていないので、贅沢はできません。喉が渇いたのなら目の前に置かれた水を飲めば十分なのです。
「んー、そう。じゃあ代わりに決めてあげる。えっとね、ここから〜ここまで持ってきて」
わたしからメニューを取り上げると、この人は店員さんに向けて開き、その上を指でなぞって示し、店員さんもとくに驚いた様子もなく、それらを書き写していました。
「では注文は」
店員さんは、まるで魔法の呪文のように、つらつらとすごい速さでメニューを復唱していました。
そんなにお腹に入るわけが無いのに、このままだと本当に注文が通って頼んだ物がきてしまいます。
どうしたらいいのか分からなくて、耳鳴りのように周囲の音が遠のいた瞬間、このままじゃいけないと勇気を出して体を動かしました。
「あのっ!」
声と共に勢いに任せて体を乗り出し、ばっ、と手のひらを机につけました。
二人して不思議混じりに驚き、同時に店にいた他の人たちもわたしに目を向けて、その視線に怯みながらも、口を開きました。
「自分で決めるので、もう少し待ってほしいです………」
「言えたわね」
届いた飲み物に一口つけると、この人はそう言いました。
「何がですか?」
「要求、それともお願い? まあ言い方はなんでもいいのだけど、今あなたは、自身の意思をちゃんと私に伝える事ができた。だから同じように、気になる事があれば真惟にも言ってやればいいのよ」
何も話してないのに、確信をつかれたような言葉を言われて、自然と身構えました。
「どうしてそう思ったのですか?」
「何となく。ノアちゃんはわがままを言う子じゃないし、真惟だってわざわざ人を追い込むような事はしないから、もし何かあったのなら、きっとすれ違っちゃったんだろうなーって。あなた達はどちらも内気だから」
別に悪い事ではないんだけどね、と穏やかな表情でこの人は話します。おそらく、誰も責める気はないのでしょう。聞いてあげるから話してごらん、そう言っているようで、わたしも緊張を解き、目を伏せて一旦感情を落ちつかせてから口を開きました。
「言えるわけ、無いじゃ無いですか」
「それはどうして?」
「あの人は色々とお世話をしてくれて、たくさんの事を教えてくれるので、なのでこれ以上、甘えるわけにはいけません」
「なんで?」
「なんでって、」
「もっと甘えればいいのよ、それがダメな理由なんてないのだから」
その簡単そうな言葉は、わたしの中で引っ掛かっていた何かを抜いてくれるようで、一瞬だけやすらぎました。でも、
「でも………母は亡くなりました」
引きずりすぎているのかも知れません。
気にしすぎなのかも知れません。
でも、母はわたしの知らぬ間に体を悪くし、わたしの身近で事切れて、眠ったのです。
「もう、あんな思いはしたくありません」
本当に大切で
「そんなに自分を責めないで」
この人のあたたかな指先が、グラスを握って冷たくなったわたしの手に触れました。
気づけば奥歯が痛くなるくらい、歯を噛み締めていました。緩めるように口を動かすとギシギシと関節がなって、すごく力を入れていたのだと教えてくれます。
呼吸を整えて肩の力を抜くと、触れていた手は離れていきました。
「何もできなかったのは私も一緒よ。知っていたって、どうしようもない事なんて沢山あるの」
なだめるのとはまた違った、思い込むような言い方に、わたしもまた共感していました。でも、きっとこの人の方が
「どうすれば良かったのでしょうか……」
「んー?」
「その……わたしは知りませんでしたが、もしも母の病気を知っていたら、どう過ごせばよかったのでしょうか」
間違ってしまったわたと違って、なんでもできそうなこの人は、どのように考えて、母との限られた日々を過ごしたのでしょうか。その事は以前から気になっていました。
「そうねー……それについては上手くできた、なんて思えてないけど、私はその瞬間を大切にしたわ」
予想外にも、簡単であっさりとした言葉に、ん? と首を傾げます。
「ちょっとわかりにくい? でもね、結局私にはそれしか出来ないんだって、今回のことでも身に染みたわ」
この人はそう言いながら一度こちらに向かって微笑むと、すぐに手元を見据え、目を細めてから口を開きました。
「はじまったものには必ず終わりが来るの。それは待ってはくれなくて、
とても真剣で冷たい口調で、でもその言葉はわたしには向けられていなくて、頭には定着せず、身体の中を流れていきました。
「えっと…」
「あ、ごめんなさい。ただの虚しい一人語りだから、もう忘れて」
「でも」
「大丈夫。あなたは、あなたの方法で向き合えばいいの。結局だれが何を言ったって、受け止めるのはあなた自身なのだから。もし納得できないのなら、これから探して行けばいいわ」
その言葉を最後に、この人は遠くを見てこの話は終わりました。
訊けば答えてくれたのかもしれません。でも、おそらく話し続けてもわからない気がして、わたしも口を黙ました。
その後は、お互いに話さず飲み物を口にしたり外を見たりして、静かな時間を過ごし、お店の空気に身を委ねていました。
単色なお店の内装。他のお客さんの話す声。スピーカーから聞こえる知らない音楽。初めて入ったお店で、あまりした事のない外食で、それなのにどこか落ちつけて、だからなのでしょうか? ふと思ってしまった不安を無意識に口にしました。
「わたしは、あの場所にいていいのでしょうか?」
「どうして?」
「以前、あの人にも同じような質問をしたんです。そうしたら、いいよって言ってくれて、うれしかったのですが、やっぱり……その、負担になってるんじゃないのかな、って」
伝えるのが怖くて、声が震えていました。それでも話せたのは、その事がずっと心に引っ掛かっていて、
この人たちはわたしを受け入れてくれました。初対面のはずなのに気を遣ってくれて、他人なのに何故か『お母さん』と『お姉ちゃん』と呼ばせてくれて、いろんな相談も聞いてくれて、わからない事も教えてくれて、それなのにわたしは困らせてばかりで、今ですら逃げ出して迷惑をかけています。
「そうね。負担にはなってるかもしれないわね。あの子、ノアちゃんが来てからそわそわしてるし、いつもよりも考え込んでるようだし」
やっぱりそうなんだと、事実だと自覚して、目を伏せ、口を引き締めました。
「でもね、それが迷惑かどうかなんて、本人に
辛い目を前へと向けて、姿勢を正しました。
「訊いてみなさい、真惟に。きっと答えてくれて、その後はきちんと受け止めてくれるから」
鼻の奥がつんとして、言葉が出ませんでした。だだじっと目の前のわたしを見守る視線を見つめて、息を呑みます。
そうしていると、この人は急に笑い出して場を和ませると、ふわっと話し出すのです。
「もうすっかり夜ねー、外は寒そうだし、今夜は温かい食べ物が食べたいわね」
「そうですね………」
「もう少ししたら帰りましょう。でも、その前に注文したものを味わってね。せっかく頼んだんだから」
その言葉にわたしは返事をしたのでしょか。それとも、頷いただけでしょうか。それすらも曖昧で、正直、飲み物は何を頼んでそれが美味しかったのかどうかも覚えていません。
けれどあの家に帰った時に、いつもよりも苦しくて、でもすごく安心したのは覚えています。
あの人に合わせる顔がなくて、また脱衣所にこもり心の準備をして、整わないうちにあの人が呼びにきてくれて、勇気を出して扉を開けると、お姉ちゃんはそこに居てくれました。
テーブルを三人で囲んで、お母さんの言った通りの温かい料理を口にしながら、まだここにいていいんだと、そう思えたのです………
「もうすぐ着くよ」
隣から聞こえたお姉ちゃんの声に反応して目を開けると、窓の外には見知った風景が広がっていました。
長く続く背丈よりも大きな柵の後ろには満開を迎えた桜が見えて、歩道には同じ学校の生徒たちがいくつかの列をつくり歩いています。
その列を追い越すようにバスは進み、やがてバス停が見えてくるとその前でゆっくりと停車しました。
二人で立ち上がり、お金を払ってからバスを降りると、そこから見た学校は、今年で五年目のはずなのに、不思議と全く違った景色に見えました。
「それじゃ、学校が終わったら迎えにいくから……あ、向こうも知ってるとは思うんだけど、担任の先生に挨拶したいから、一応ノアちゃんからもそう伝えてくれる?」
気負いすぎて、返事をする事ができなくて、かわりに首を縦に振りました。でも、それだけで伝わったのか、この人は微笑んで頷いて、そして、
「それじゃ………」
また後で、と言葉を残して振り向き、離れていきます。囁かれたその言葉が、ぎゅっとわたしの胸を締め付けました。
学校が終わればまた会える、迎えに来てくれると、わたしは知っています。
でも、それでも、いま話をしたかったのです。
昨日のことを謝りたくて。それ以上に、
思いとは裏腹に、体は固まって言う事を聞かなくて。まるで何かが喉に詰まったように、もどかしくて、苦しくて、歩いていくあの人を呼び止める事ができません。
学校の予鈴が鳴って、金縛りが解けたかのようにようやく体を動かすと、あの人の姿はどこにもありませんでした。
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