『きれつ』のふちを、ただ『なぞ』って 6-3
昇降口の前に張り出されていたクラス分けを頼りに、教室へと足を向けます。
正直それなりに落ち込んでいましたが、もう予鈴は鳴ってしまったのであまり余裕はありません。初日から遅刻してしまったら、余計にクラスから浮いた存在になってしまいます。
五年生と六年生はは一番上の階なので、駆け足にならないように足を早めて階段を登ります。
背中が汗ばみ、息切れする頃になると、ようやく階段を登りきり、壁に手をついて呼吸を整えながら廊下に出ると、まだ話している人たちが大勢いて、ほっと胸を撫で下ろしました。
背を丸めて、できるだけ目立たないように廊下の隅を進みます。隠れる必要はないのですが、鞄を背負っているのがわたしだけだったので、恥ずかしくて、自然と体がそうしていました。
たまに廊下にいる子たちから視線を感じていると、急に誰かから呼ばれた気がして、振り返ろうとした途端、突然背中に大きな衝撃があって、危うく倒れそうになりました。
「うわぁっ、なに?」
声を出して何が起きたのかを理解する前に、誰かの手が背中にまわり、痛いくらい強く締め付けました。泣いているのか、耳元からずびずびと鼻を啜る音が聞こえてきます。
「ノアだぁ〜あぁぁ」
感情が溢れてがらがらになった声と、目の前で揺れている束ねられた髪の毛から、誰かを予想して、声を掛けます。
「腕が痛いよ、
よくわかりませんが、一旦離れてほしくて、背中をポンポンと叩いて安心させようとすると、絡まった手は余計にキツく閉まりました。
「よ゛がったーあぁ」
「いたい。ほんとうに痛いって里沙ちゃん!」
もがいているのに、向こうの方が力が強くて身動きが取れません。うわぁー、という叫びだけが耳元で響いて、頭の中がパニックを起こし始めた時に、横から救いの手が差し伸べられました。
「もぉー、里沙ちゃん。そんなに力を入れたら、ノアちゃんが潰れちゃうよー」
穏やかな声が聞こえてくると、ようやくわたしにまわされていた手が緩みます。
「だってぇ〜」
「だって、じゃなくて。ほら、ノアちゃんも困ってるよ」
ゔぅー、と名残惜しそうに手は離れて、急に呼吸が楽になったせいか、けほけほ、と少し咳き込んで落ち着いてから顔を上げると、いつもと変わらない、長い時間を共に過ごしてきた友達の姿が見えました。
「おはよう。
そう声をかけると、目の前に並んだ背丈も容姿も似ている二人から同時におはよう、と挨拶が返ってきます。片方はずびずびしてましたが、タイミングは今日もぴったりです。
そう、なんと二人は双子なのです。生まれた時から一緒で、見た目だって、髪の毛を束ねる位置をお互いに逆にしているから分かるだけで、同じ髪型なら見分けがつかないかも知れません。
ただ、
「ノアちゃん大丈夫? もぉー、里沙ちゃんはもっと落ち着いてよー」
「だってぇ………。そもそも里奈が落ち着きすぎなんだよ」
性格とか雰囲気にいたっては不思議なことに真逆なので、動けばすぐにどちらか分かってしまいます。
「えっと、わたしは大丈夫だから。でも、今日はどうしたの?」
里沙ちゃんはいつも元気一杯なので、スキンシップも過剰気味ですが、今日は泣いていますし、いつもとは違う気がしました。
すると、ぐしょぐしょの里沙ちゃんの代わりに、落ち着いている里奈ちゃんが説明してくれました。
「朝きたらノアちゃんが居なかったから、転校しちゃったと思ったんだよね、里沙ちゃん」
里沙ちゃんは小さく頷きました。
どこからそのような考えに至ったのかは分かりませんが、深く心配してくれたようです。そんな里沙ちゃんの顔を、里奈ちゃんはハンカチで丁寧に拭いていきます。
「ほら、もう泣き止んでよ。鼻水垂れちゃってるよー。それとね……ノアちゃんの肩にもついちゃってる………」
えっ、と服を引っ張って肩をみると、ちょうど里沙ちゃんがアゴを載せていた部分が、まぶしいくらいに光を反射していました。
「ごめんよー!!」
その謝罪は廊下中に響くくらいにとても大きな声でした。
そのあとも里沙ちゃんはなかなか泣き止んではくれなくて、出来るだけ二人でなだめて、あとの事は里沙ちゃんのクラスメイトに任せたのでした。
「ごめんねノアちゃん。来たばっかりなのに、落ち着きがなくて」
気を改めて教室に向かい廊下を歩いていると、一緒にいた里奈ちゃんが話しかけてきました。
「ううん。里沙ちゃんらしくて、逆にほっとしたよ」
最近は周囲の環境が変化しすぎたせいか、今日の学校からは、どこかずれたような違和感を感じていて、でも里沙ちゃんのおかげで今はそのずれを、すこしだけ直せた気がします。
「よくわからないけど、そうなんだ」
ほっとしたように微笑んだ里奈ちゃんに「うん」と静かに返します。
二人とは一年生のころからの友達で、クラスが違っても休み時間は一緒に過ごすくらい、仲はいいです。
遊ぶときはほとんどの場合、里沙ちゃんがわたし達を振り回すのですが、それもどこか楽しくて好きでした。
「でもね、私も心配しちゃった。引っ越すって聞いてたし、大丈夫だとは思ってたけど、もしかしたらそのまま遠くに行っちゃうかもって春休み中不安だったんだ……」
だから、そうじゃなくて良かった、と里奈ちゃんは嬉しそうに微笑んで、つられて、わたし頬を緩めました。
「あ、そうだ。ノアちゃんはクラスわけ見た?」
「いちおう見たんだけど、急いでたからまだ自分の名前しか見てないんだ」
「そうなんだ、私たち今年は一緒のクラスだよ」
「え?! 本当に! 今年もよろしくね、里奈ちゃん」
突然の朗報に心が弾みます。よく知っている相手がいてくれるだけでも、気が楽になります。
「あっ………うん、」
歯切りの悪い声をして、里奈ちゃんが急に立ち止まりました。振り向くと驚いたように口を少し開けて固まっています。
「ごめんね……その………わたしだけ浮かれちゃって」
「へ? あ! ううん、そんなことなよ。ただ、びっくりしちゃっただけだよ。ほら、ノアちゃんはあれ以来、すごく落ち込んでたから………でも今日のノアちゃんは久しぶりに元気でうれしい。春休み中に何かいい事あったの?」
反応もできずに固まります。
今日のわたしは、元気なのでしょうか? 確かに先ほどは喜んでしまいましたが、今朝まではあんなに落ち込んでいたのに。
「んー? あ、それよりも早くしないと、先生来ちゃうよ」
里奈ちゃんは嬉しそうに笑い、教室に向かい足を早めたので、わたしも追いつこうと足を早めます。
新しい教室に着いて中を見渡すと、ほとんどの人は席から離れて楽しそうに会話をしていました。
いったん里奈ちゃんと別れて出席番号を頼りに自分の席を探します。誰かに使われていたらどうしよう、と不安でしたが運の良いことに、隣の席に座った男の子の周りに何人かが集まっているだけで、わたしの席にが直接使われているわけではありませんでした。
男の子たちの会話を邪魔しないように鞄を机の上に置いて、ひとまず遅刻しなかった事に安心し、息を吐きます。
そうして一度落ち着くと、さっきの里奈ちゃんの言葉が再び頭に浮かんできました。
“春休み中に何かいいことあったの?”
何かはありました。それも、わたしにはもったいないくらいの、とてもいい事です。
鞄を開けて、新しく買ってもらった文房具を見て気を引き締めます。
お姉ちゃんも、お母さんもわたしに期待はしてくれていますが、何も要求しません。恩返しをしたくても、今のわたしに返せるものもありません。
だから、今は行動で感謝を示したいのです。
わたしは何もできませんが、それならせめてちゃんと学校に行って勉学に励み、いつかお姉ちゃんのように自立した人になりたい。
そうなれなければ、きっとわたしは胸を張って生きていく事なんてできません。だから、
「………がんばらないと」
周りに聞こえないように小さな声で決意を固めます。
まだ道先は長くても、きっとがんばっていれば何かは習得していける筈です。そうすればお姉ちゃんと話す為の話題もできます。
話題があれば……もっと自然に話せるようになれるでしょうか? まだ伝えていない母の事も、わたしを苦しめている後悔も、いつか話すことができるのでしょうか?
そういった考えが頭の中が一杯になって、手が止まります。周囲から隔離されて、呼吸が遠くなっていくように感じたその時でした。
わたしの前の席に一人の髪の長い女の子が訪れました。
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