『こくはく』の後には『あゆみ』だせて3-1

 仄暗ほのぐらい通路を、誰かに手を引かれて歩いている。

 

 通路の両脇には大きな水槽があって、多くの人たちは足を止め、水槽の中を覗いて楽しそうにして、眺めたり、話したりしている。

 

 そんな人たちの間を、私は手を引かれて歩いていた。


 ゆっくりと、すぐに立ち止まれるほどの速さで、人の間を歩いている。


 ときおり、手を引いている人は水槽を指差し、何かを私に話していた。

 興味はなかった。けれど、何となくその人が指差すたびに、私はその先に目を向けた。


 人と水槽。それしか目にはうつらない。

 この人は、なぜそれを指差し説明しているのか、ここの人たちは、なぜ水槽をみて楽しそうにしているのか。私には分からなかった。


 はやく帰りたい。

 

 ここにいる人たちは楽しんでいて、多分、その為にここに来ている。


 私は楽しくない。ここには連れてこられて、ただ手を引かれて歩いているだけだ。

 

 ここには人を楽しませる目的があって、楽しんでいない私が、ここにいるべきではない。


 だから、はやく帰るべきだ。


 足を止めずに、ただ歩く。

 けれど、説明には耳をかたむける。説明をしてもらってるから。

 周りは、なるべく見ない。

 だって、楽しんでる人の邪魔じゃまをしたくないから。


 お願いだから、はやく、ここから出たい。

 そう思いながらも、手を引くこの人は速度を上げてくれない。


 この人の声は、楽しそうで、優しくて、だからこそ私に


 帰りたい。いやだ。


 苦しくなって、足元をみだした瞬間に、視界の端を一対いっついの影が横切った。

 

 足を止め、落ちかけていた顔をあげる。

 視界は相変わらず薄暗く、目の前には他と変わらない水槽があった。


 通路よりも明るく、青く輝いているようにもみえる水槽の中を、二つの影が縦横無尽に泳いでいる。

 

 無意識に水槽に向かって、一歩、また一歩と足を進め、出来るだけ近づくとそこで足を止めた。


「気になるのかい?」


 そう言われて、自分が興味を持っている事に初めて気がついた。

 何が気になったのだろう。このわいてしまった好奇心を、どう整理したらいいのか分からずに固まっていたら、その人は再び話し始めた。


・・・」


 水槽の中を泳ぐ生き物、周囲で話している知らない人たち、何処からか聞こえてくる低い機械の音、いま手を繋いでいるこの人の話し声。

 それらが私という歯車に、噛み合っていくように感じて、私を突き動かして、自分が今ここにいる事を教えてくれる。


 この瞬間、ようやく私は自分の周囲や世界へと、興味を持った。


 それはまるで、長い眠りから目覚めた時のように、何もかもが輝いて見えた。



 

 いつもと同じ時間に、目を覚ます。


 まだ少しだけ空気は冷たく、息をするたびに寝起きで乾いているのどが痛んだ。


 はやく起きてしまおう、そう思って目を開けると、目の前に可愛いらしく、気持ちよさそうで穏やかな寝顔があった。


 少し驚いて、そうだったと思い出した。

 

 今は一人ではない。

 

 母が突然連れてきた女の子。その子と二人でこの部屋を使っているのだと。


 一人での生活が長かったせいか、いまだになれない。

 なれる時など訪れないのではないのかと、そう思える瞬間があって不安になる。

 けれど、この数日、いやだと感じた事はない。

 

 もともと、誰かとすごすのは嫌いではないし、母の世話と比べれば、この子は自分から率先して動いてくれるから困ることはない。

 それでも、不安に感じる。


 理由はわかってる。

 怖いんだ。傷つけて、拒絶されるのが。


 音を立てないように、起きるため体を動かそうとすると、自分の手に違和感があることに気が付いた。


 起こさないよう、静かに布団をめくると、隣の布団から伸びたノアの手が、私の左腕をつかんでいた。

 パジャマの上から、私の手首よりも少し下を、小さな手がつかんでいる。


 いつからそうしているのだろう? 睡眠の邪魔はされてないし、別にされてもかまわないのだけど、少し無防備すぎないかと思う。


 仮にも私たちは数日前に出会ったばかりなのに、もしも私がよこしまな考えを持っていて、そのために近づいて、安心させているとは考えたりしないのだろうか。

 

 そんな馬鹿な事を考えたあと、握ってくれている手に触れた。


 わかっている。わたしを信頼をしてくれているのだと。

 

 そっと、ノアの手をほどいて、布団の中に戻してあげる。もし、私の手を握ることで安心できるのなら、ずっとこのまま起きるまでそうしてあげたいのだけど、私にもやらなければいけない事がある。


 すー、すー、と気持ちよさそうな小さな寝息を聞いて、眠りの邪魔をしていない事を確認し、体を起こして、そのまま布団から出た。


 

 誰もいないダイニングに入り、灯りをつけてから、朝食と母のお弁当を作るためにキッチンへと向かう。

 冷蔵庫から作り置きしておいた料理を取り出して、残っている食材を確認しながらお弁当に何を詰めるのか、それと朝食を考え、決まるとすぐさま準備を始めた。


 朝は忙しくて、無駄な時間はない。

 学校はまだ休みだけど、母は仕事に行くから、結局いつも朝早く起きて準備をしなくちゃいけない。

 

 お弁当の容器に、作り置きの野菜の煮物と、エビチリを詰めて、それだけでは味気ないと感じ、冷蔵庫からベーコンとアスパラガスを取り出し、切ってから炒めた。


 あとは卵焼きでも詰めればいいかと思ったところで、扉が開いた音がした。


「おはよう、真惟まい

「おはよう。今、朝ごはん用意するね」


 ん、と素っ気のない返事をして、母は席につき自分のタブレット端末で新聞を読み始めた。

 いつものように、既に身支度は済んでいて、朝食をとり次第、仕事に向かうのだろう。 

 

 電気ケトルに水を入れてお湯を沸かしてる間に朝食の準備に取り掛かかり、バゲットを切り分けようとナイフを入れたところで母に声をかけられた。


「相変わらず忙しそうね。休みなんだからゆっくりしたらいいのに」

「そのゆっくりしてる時間に、母さんは一人で出ていくでしょ? そして、雑な食事をとる」

「そんな事ないって」


 切り分けたバゲットに、レタスと薄切りにしたトマト、それと生ハムとチーズを挟めてお皿に置いて母の前へと出した。


「昨日と一昨日、夕食は外で食べるって言ってたけど、何を食べたか私に言える?」


 そう言ってにらむと、母は目をそらして苦笑いをした。


「ごめん」

「謝らないでって、別に怒ってるわけじゃないから」

 

 電気ケトルからカチッと音がしてお湯が沸いた事がわかると、息を深く吐いて、気分を入れ替えた。


「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」

「コーヒーで」

「わかった」

 

 私がキッチンに戻ると、母はすぐ私が出した物を食べ始める。

 静かに坦々とタブレットを見ながら、食べてのみ込む、それを繰り返す。

 おいしいのか、不味いのかはわからないけど、食べてくれている。それだけで、どこか納得できる。


 朝はいつも忙しくて、母はいつも少しだけ気に障る事を言う。でも、いやではない。

 朝が忙しいのも、母との少しギスギスとしている会話も。私にとって、大切な日常になってる。

 

 あの子も、ここにきてくれるのだろうか。

 そしたらどうなるのか、今よりもっと忙しくなるのか、母は今よりも私をからかうようになるのか、想像をふくらませながらコーヒーを淹れる。

 

 お湯を注がれたことで、ペーパーフィルターに置かれた粉末が泡立ち、お湯がしみ込んでいくさまを眺めていると、ふいに、キィと扉が開く音が部屋に響いた。 

 よく閉まってなかったのかなと思い、扉の方に目を向けると、


「おふぁよぅ、ございますぅ」


ふらふらと、今にも倒れてしまいそうなノアがそこに立っていた。 



 


  

 

 

 

 


 


 

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