「いた」んだあとは、また「むき」あえて 8-1
「今日は楽しかった? マイ?」
暗い建物から出て、家に帰るために駐車場を歩いていると、手を引いてる人はわたしに
「わからない」
下を向いて、ぼそっと答える。
答えるのが、難しい。この人はいろんな所に連れて行ってくれるけど、わたしには、それが楽しいのかがわからない。
だから、わたしもこの人の腕を二回引いて「楽しかった?」と訊き返した。
「うん。楽しかったよ。マイが一緒だからね」
さらりと、簡単に返された。
この人はいつもそうだ。
不思議なくらいに言葉が軽い。そしてトゲがなくて、やさしい。
こども園の先生たちもやさしい声をしてるけど、この人の声は、それ以上に心地よかった。
「わたしが一緒だと、楽しいの?」
顔をあげる。表情が見たくて。でも、この人の背は、お母さんよりもずっと高くて、見上げても、いつもよく見えない。けれど今日は、少し顔を傾けてくれて、目は見えないけど、ほっぺたのあたりまでは見えた。
「楽しいよ。一人だったら、多分なにも感じなかったんじゃないかな」
「………いってることが、よくわからない」
よく見えない顔に目を凝らすと、ふ、とこの人が微笑んでいるのがわかった。
お母さんから、人は言葉以外に、表情で会話するって教えてもらった。
わたしたちは、自分たちでも分からないくらい、顔の動きや、仕草から感情を読み取って、会話をしてるって。
難しくて、実感はないけど、いま微笑んでいるこの人は、やっぱり楽しんでいるのだと思った。
「マイだって、お母さんと一緒だと楽しいでしょ」
そう言われて、はっとする。
どうしてか分からないけど、お母さんといると、ほっとして、心地よくて、安心できた。
「うん」
「ね、そういうことだよ。難しいことじゃなくて、もっと些細な、自然なことなんだよ」
そうなのかな? そうなのかも。
考えたことなかったけど、確かにここにお母さんがいたら、楽しいのかもしれない。
お母さんは、いつも仕事が忙しい。
夜は遅くて、休みの日だって、家にいない。
だから、ご飯の時に空いているお母さんの席を見ると、胸がズキズキとして痛かった。
こうやって外に出ることも、お母さんとはしたことがない。
もし一緒にお出かけできたら、どんな風に過ごすんだろう? まったく思い浮かばないけど、でも、この人が一緒なら、お母さんは喜ぶのかもしれない。
だって、この人といるお母さんは、わたしから見てもわかるくらい、楽しそうだから。
わたしといるよりも、ずっと自然で、どこか落ち着きがないから、だから、たぶん、わたしと二人きりよりも、ずっといいのかもしれない。
「ねえ、マイ。マイは、あの水槽の前で、なにを感じたの?」
突然の問いに、頭が回らなかった。
「え?」
「あの水槽。マイが唯一立ち止まった、あの水槽を見て、マイはどう思ったの?」
この人は立ち止まった。それから、少し背を丸めて、わたしを覗き込み、答えを待っていた。
「わからない」
わからなかった。多分、何かを感じてたけど、言葉にできなかった。
「そうなんだ。なら、その感覚を忘れないで、覚えておいて。そしたらきっと、いつか、わかる時が来るから」
「うん」
目を伏せて、あの感覚を思い出して、胸に焼き付ける。なんだか不思議なくらい、胸がドキドキとした。今日は変だ。どうして、こんなに胸が高鳴って、落ち着かないんだろう。わからない。
「じゃあ、帰ろうか。お母さんも、今日は家で待ってるって」
そう言ってこの人または歩き出した。
繋がれた手が、わたしを引っ張って、わたしもこの人を追いかけて、でも、どうしてか意識があの場所から動くことができなくて、すぐに体も動くのをやめた。
「マイ?」
後ろを向いた。
そして見つめた。さっきまでいたあの建物を。
わからなかった。だから、知りたかった。
わからないのが苦しかった。
この人のことも、お母さんのことも。世界の何もかもが、わたしにはわからなくて、そんな自分が苦しかった。
繋がれた手が、わたしの隣にまわった。
「どうかしたの? マイ?」
疑問を持った声が、真上から聞こえてくる。
「わからないの」
声がかすれる。
「先生がお友だちだって言ってる子たちのことも。その子たちがいつも楽しそうにしていることも。みんな、みんな、わからないの。でも、確かにわたしも、みんなに興味がないの」
みんながしている事が、真っ白に感じる。興味が起きない。あの場所が全て、無意味に感じて。
でも、そんなわたしを見るみんなの視線が、冷たくて、わたしを否定をしてて、苦しくなって。
「わたしって、おかいいのかな?」
おかしいから、変だから。
だからお母さんも、わたしを見る時に、あんなふうな冷たい視線を向けるのかな。
そう思うと、目の端から、何かが
なんなんだろう、これ。わからない。
やっぱり、今日はおかしい。
それとも、おかしいのはわたしなの?
わからない。わからなくて、不安で、どうしようもなく苦しくて、押しつぶされそうだった。
「そんな事ないよ。マイ」
肩にそっと手が
気がついたら、この人はわたしの目の前にいた。
足をついて、わたしの目線まで顔を下げてくれて、でも、視界がぼやけて顔が見えなかった。
「でも、みんな変だって、いうよ」
「それはみんながマイを知らないからだよ」
「でも、わたしも、わたしがわからない」
自分が何がしたいのか、何が楽しいのかもわからなくて。だから、みんなが変だって言って、あの、向けられる視線の理由も、なんとなくわかって、それなのに、どうすればいいのかわからなくて。
「わたし、苦しい」
胸の奥が、転んで擦りむいた時のように痛かった。ズキズキと、後を引いて、でも怪我をしたわけじゃないから、触れる事ができなかった。
そんな時に、あたたかい手が、わたしの頭をそっと撫でた。
「わかった」
一回、二回と、やさしく、呼吸に合わせて、大きな手が、わたしにふれる。そして、撫でるのをやめると、この人はわたしを見据えて話しかけた。
「ねえ、マイ。あそこにあるベンチが見える?」
そう言って、この人はどこかに向かって指をさした。それを追うと、ぼやけた視界の先で、コンクリートの壁の前にベンチが見えた。
「うん」
「ちょっと、忘れ事を思い出したから。あそこで少し待っててもらってもいいかな?」
「それって、大切なこと?」
「うん。とっても大切だから。だから、一度戻りたいんだ」
「………わかった」
本当は一人になりたくなかった。
でも、この人はじっとわたしを見るのだから、恥ずかしくて、目を逸らした。
よし、えらいぞ、と声がして。さっきよりもガサツに頭を撫でられた。
くしゃくしゃと髪の毛を触られて、うっとうしくて手を払いのけると、この人は声に出して笑った。
楽しそうに、声高々に。
そして笑い終えると、目元をこすって、それからまたわたしの手を取った。
「それじゃあ、行こっか」
そう言うと、この人は再び立ち上がって、またわたしの手を引いて歩き出した。
ゆっくり、ゆっくり。わたしの歩幅に合わせて歩いて。ベンチの前まで来ると、わたしを持ち上げて、ベンチに座らせてくれた。
「すぐ戻るから。ほんとすぐに」
「うん」
頷くと、この人は急に慌て出して、さっきまでいた建物に向かって走り出した。
初めて見る大人の人の走りに、少し驚いて。
でも、その一生懸命な背中が、どこかかっこいいと思った。
そんな背中が見えなくなると、周囲へと目を向けた。
視界に映る、なんの変哲もない駐車場。そこを歩いている人たち。人を乗せて、動き出す車。
やっぱり、何も感じなくて、辛くなって下を向いた。
そんな時だった。
急に後ろから強い風が吹いて、髪をおさえた。なんだろうと思い、自然と体が後ろを向く。ベンチの背もたれに手を置いて、体を起こすと、コンクリートの壁の先には、夕焼けに染まった、広い景色が広がっていた。
視界を埋め尽くす、大きな波と。全身で感じる大きな音。
あまりの広さに圧倒されて、わたしは一人、静かに涙を流した。
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